『チョコレート・ドーナツ』

ゲイのカップルがダウン症の少年を育てようとするお話。
2012年のアメリカ映画。
舞台は1979年のカリフォルニア。

今でこそ、LGBTという言葉がようやく根付きはじめ、性的マイノリティ-に対する差別や偏見はやめましょう、と言われるようになってきたが、70年代頃は、ゲイのカップルは、まるで汚らわしいもの、というような視線を浴びせられていた。

チョコレート・ドーナツとはダウン症の少年マルコの大好きな食べ物。
「体に悪いよ。」と言われながらも、チョコレート・ドーナツを食べる時のマルコのうれしそうな顔は最高。とびきりの笑顔だ。
ダウン症のマルコは、人とスムーズにコミュニケーションをとることができない。
人から質問されても即答はできず、無表情のまましばらく間をおいて、ぽつりと答える。
そんなマルコのこのことをわかっていれば、時間はかかるけれど、マルコの気持ちを理解することはできる。
好きなものはなにかという質問にもちゃんと答えられる。
マルコは、自分を主人公にしたハッピーエンドで終わるお話が大好き。
ルディの創作するそういうお話を聞くのが大好きで、いつもルディに「お話して」とねだる。
お話を聞くときのマルコは本当に幸せそうで、素敵な笑顔になる。

ゲイのルディは、マルコとめぐりあったことで、この少年を笑顔にしたい、幸せな気持ちでいて欲しい、と心から願ったのだろう。
差別と偏見にさらされているルディにとって、守るべきものの存在は、心の支えになったのだろうと思う。


マルコは実の母親から育児放棄された少年で、母親が男とあっている時、よく部屋から閉め出されていた。そんなダメ母親が、危険薬物所持で逮捕されてしまい、残されたマルコは施設に引き取られるのだが、そこになじめないマルコは脱走を繰り返し、街をさまよっていた。ある日、街をさまようマルコに遭遇したルディが、彼を自分の家に連れ帰る。この時、ドーナツを食べるマルコの笑顔をみて、ルディはマルコを引き取りたいと思ったのだと思う。

検事局のポールと心を通わせ合い、つきあっていたルディは、自分たちがゲイのカップルであることを伏せ、法律に強いポールの力もあって、法的手続きによりマルコの監護者となって、三人で暮らし始める。
マルコの笑顔にあふれる時間が流れる。
マルコの笑顔はまわりの者を幸せにする力がある。


しかし・・・。
ルディがどんなにマルコを愛し、マルコがルディなついていていても、ゲイをどうしても認めることのできない「あの男」と二人が呼んでいるような人物もいる。ルディとポールのことをまるで汚らわしいものというような目つきでにらむ「あの男」。
もちろん、ルディがマルコに注いでいる愛情を理解し、ルディを養育者としてふさわしいと認めてくれる養護学校の教師など、周りの温かい人たちもいるのだが、世間の冷たい目は、厳しい。

ルディとポールとマルコの三人をめぐる状況は一気に悪化し、二人はマルコの養育者と認められず、不利な裁判を展開することになる。

***********
日本では、2016年12月に、大阪市でゲイカップルが養育里親に認定され、今年2月から10代の男の子1人預かることになり、育てているという。
育児放棄の親、虐待する親の元にいるよりは、形は世間一般とは違うマイノリティであっても、愛情のある人のもとで暮らす方がどんなに幸せかと思う。
日本でも、ようやくそうした価値観が根付いてきたのだと思う。(ただし、養子となると、法的にまだまだハードルは高いそうです。)

そして、もう一つ。ルディのように心と体の性が一致しないというのは、とてもとても、苦しいことだろうと思う。その場合、人にとって心が一番大切なものであるから、心の方に一致させるしかない。しかし、そうすると、心は女でも、体は男なのだから、ひげも生えるし、見かけはどうしても、男性なのに女装している人、としか見られない。
心と体の性が一致して生まれてくれば何もする必要のない苦労を、たまたまそれが一致しないで生まれてきてしまったLGBTの方たちは、人間として最も基本的というべき男なのか女なのかという己の性のことで苦労しなくてはならない。
そして、生物学的にそれは一定の割合で存在する。ネットで調べたところ、7.6%だそうだ。
だとしたら、性的マイノリティの人たちも生きやすい社会でなくてはならないと思う。

以前、電車の中でスーツケースがぶつかったか何かのトラブルで突然切れた男が、相手がLGBTと見てとるや、スーツケースを思い切り蹴飛ばして、「気持ちわりいな、このおとこ女!」と言い捨てて、電車から降りていった。
車内の雰囲気が一瞬凍った。
その時、そばにいた女性が、スーツケースを蹴飛ばされた方に、「大丈夫ですか?」と声をかけた。声をかけられた方は、静かにうなずいて微笑んだ。それだけで車内の空気が和んだ。
とっさの場面でそんな風に声をかけられたその女性は、マイノリティの立場に立ってものを考えられる人なのだろう。

『チョコレート・ドーナツ』はそんな出来事を思い出させてくれた)作品でした。

『いつか晴れた日に』

18世紀末から19世紀初めころの、イギリスの貴族の女性を描いた作品。
貴族にも裕福な貴族も貧乏な貴族もいる。財産のない貴族身分の女性は、自分で働いて収入を得ることもできず、不自由なものだと思った。
打開策は、条件のよい結婚という自力ではどうにもならないことしかない。
そんな当時のイギリス社会を舞台にした、財産のない貴族の姉妹の物語です。

原作は、ジェーン・オースティンの『分別と多感』
『分別』とは姉のエリノア(エマ・トンプソン)を表した言葉で、『多感』は妹のマリアンヌ(ケイト・ウィンスレット)のこと。
辛い状況の時も感情をあらわにすることなく、ひたすら耐えるエリノアは、少々地味なくらいである。一方、妹のマリアンヌは、褒められればうれしくなるし、ひどい状況に陥ってしまった時は悲嘆し、荒野をさまよってしまうほど激しく心乱れてしまうなど、感情がむき出しになる。マリアンヌは美人で華やかで魅力的。
性格のまるで違う二人の物事に対する反応の仕方の違いが興味深い。しかし、この姉妹は(三女の年の離れたマーガレットも含めて。)仲が良く、支え合って生きている。
遭遇する不幸な出来事に対して、それぞれの受け止め方で、

(あらすじ)
姉妹の父親である貴族のダッシュウッド氏が亡くなる。広大な土地を分割したくないというダッシュウッド氏の遺志で、遺産は先妻の子ジョンが受け継ぎ、後妻である姉妹の母と姉妹たちには年金で生活を保障する、という事なった。
しかし、その年金はジョンの妻ファニーにより、減額され、さらに母と姉妹が住んでいた邸宅を乗っ取られ、母娘は親戚の厚意で田舎のバートン・コテージという空き家だった住まいに移り住む。元の邸宅では召使のいる生活だったがそれもなし。
この間、エリノアにもマリアンヌにも、それぞれ心を寄せる恋人ができるのだが、その恋人にはるか昔に約束を交わしたという婚約者がいたり、だらしない過去の過ちのせいで負債を負っていたがために金持ちの貴族の娘との結婚にのりかえられて捨てられたり、と気の毒としか言いようのない裏切りにあう。

ショックを受けたマリアンヌは嵐の日に荒野をさまよい、それが原因で病いに倒れる。
不幸のどん底の状況が姉妹を襲う。
*******
「さて、物語の結末はどうなるのだろう。」と結末を想像しながらワクワクして、終盤の展開に夢中になっていく。
ストーリーの展開としては、様々な可能性があるわけだ。
金銭的に困窮してもっとみじめな状況に陥るかもしれないし、このまま田舎で質素ながらも静かな生活を続けていくかもしれないし、あるいは突然大金持ちの庇護者が現れるかもしれないし、もしかすると、姉妹のそれぞれに素敵な結婚相手ができるかもしれないし。
映画を見るのは、だから楽しい。
そして、作品を見終わったあと、いろいろなことを考えてしまう。

マリアンヌのように、感じたこと思ったことを素直に表現するのもいい。
エリノアは次々におこる不幸な出来事にじっと耐え、運命として受け入れながら、それに負けてしまうことはない。
静かな強さのある女性である。
どちらがいいとか比較する必要はない。それぞれの性格なのだ。
この姉妹をみていると、遭遇する出来事に対する反応の仕方は様々だと思う。
しかし、どうであれ、その人なりに何とかしていく。
この姉妹なら、支え合って、様々な出来事を乗り越えていけるだろう。



そして、ふと思う。
人生何が起こるかわからない。
先のことを思い煩ったって仕方ない。
起こらないかもしれない不幸におびえて不安になるのは馬鹿馬鹿しい。
その時、その時に、それに対応していくしかない。
結局、おきまりの言葉になってしまうけれど、
「なるようにしかならないさ。」と大きく構えて生きていけばいいのだ、というところに気持ちが落ち着いた。
この作品を見終わって考えたことは、まあこんなことでした。
作品の意図(というものがあるとするなら)からは、おそらく大幅にそれているとは思いますが。

1995年製作のアメリカ・イギリス映画。
この作品では、エリノアを演じたエマ・トンプソンが脚本も担当し、アカデミー賞の脚本賞を受賞している。

『幸せの隠れ場所』

映画通の友人に、「ハッピーエンドで元気の出る作品があったら教えて欲しい。」と所望したところ、この作品を薦められた。
彼女はもう何(十?)年も、ほぼ毎週のように公開中の映画を見ていて、昔の作品から、今、話題となっている作品まで、実の詳しい。さらに、私の勝手な要求に即、対応してくれるあたり、いったい彼女の頭のなかの引き出しにどれだけ映画が詰まっていて、どのように整理されているのかと知りたくなる。

ともあれ、質問に答えてくれる人が、身近にいるというのはありがたい。
便利な世の中になったもので、タイトルさえわかれば、Netflixやアマゾンプライムで検索すればかなりの確率で視聴可能となる。TSUTAYAの旧作コーナーも充実している。
見逃してしまっている質の高い作品を掘り出すことが容易にできるようになった。
どんな作品が見たいのか、映画に何を求めているのかがはっきりしてくれば、作品選びができるように思う。
まったく映画を見なかった時期もあるので、私は、正直、映画にはあまり詳しくない。ブログを始めたのは、それをなんとか埋め合わせたいと思ったからで、人より10年20年遅れている状態ではあるのだが、タイミングをずらして、話題性がなくなったころに良品を掘り起こすというのも、ちょっと面白いかなと思っている。

暇つぶしに私のブログを読んで下さった方が、「これ、見てみようかな。」と思って下さることがあったとしたらうれしい。
なので、映画通の友人に教えてもらった作品をみて、「いいな。」と思った私が、さらに薦めるという、2010年に日本で公開されたものを今さらという、だいぶタイミングのずれた作品紹介です。(毎度のことですが。)

*******************
この作品は、マイケル・オア―という2009年のNFLドラフト1巡目でボルチモア・レイブンスに指名されて入団したフットボール選手の物語。つまり、実話をもとにつくられている。

ホームレス状態で、その日の寝場所を求めてさまよっていたマイケルに遭遇したリー・アン(サンドラ・ブロック)は自分の家に連れて帰る。そこからマイケルとリー・アンの家族との関わりが始まる。
裕福な白人家庭というのは、素性もよくわからない黒人の少年をいきなり家に招き入れて面倒を見てしまうことができるのだ、ということに驚くが、そうしたリー・アンの行動をおおらかに、当たり前のこととして受け入れる夫や2人の子供のおおらかさもまたすごいと思う。

身体の頑丈なマイケルの特徴を見込んだリー・アンは、マイケルにフットボールをさせてみる。最初はゲームの進め方すらわかっていないマイケルが、どんどん才能を開花させていく。

リー・アンの家族はマイケルを家族として受け入れ、姉のコリンズも弟のS・Jもマイケルを応援し、支えていく。特にS・Jとマイケルは大の仲良し。
これがもしフィクションだったなら、作り方が甘いとかツッコミを入れたくなるところ。
知らない人物がいきなり家の中で暮らし始めて、うまくいくだろうか?とか。
しかし、これはマイケル・オア―という実在の人物をもとにしたストーリーなのである。
ほぼ実話ということが何より説得力となる。


うまくいくときはうまくいく。
そのためには様々な好条件や偶然が重なっているのだろう。

リー・アンを演じたサンドラ・ブロックはこの作品で2010年のアカデミー主演女優賞を獲得。さばさばして、正義感が強くて、やろうと思ったことに突っ走るリー・アンの姿は、見ているものをさわやかな気持ちにしてくれる。

マイケルが育ったのは貧困地区で、犯罪に手を染めているようなワルがいっぱいいる。そんな中で、何故、マイケルが、悪い道に引きずり込まれず、平和主義者のごとく、やさしく素直な心をもって成長できたのか、など考えたいことはいっぱいある。
が、結果オーライでいい、と思えた。
リー・アンとその家族に迎え入れられたマイケル・オアーは一流のフットボール選手になれたのだ。
ハッピーな作品は見終わった後は、ハッピーな気分になれる。

『あん』

2015年公開の、川瀬直美監督作品。
いい作品だと聞いていたので、気になっていたのだが、遅ればせながら、ようやく見ることができた。
今回も作品についての情報はほとんど仕入れず、どんな作品なのかについてもあまりよく考えず、「おいしいものを心をこめて作ることでお店が繁盛するという楽しいストーリー」なのだと勝手に想像し、気楽に見始めてしまった。
作品の前半は、まあそういうお話。
しかし、徳江さんの抱えている事情、店長の抱えている事情が明らかになる後半になると、ストーリーの展開はまったく異なってくる。
心構えができていなかったので、終盤の30分くらいは、登場人物たちの抱えている事情の辛さに息苦しくなってしまうほどだったが、最後まで引き込まれ、考えさせられた。
評判通りの内容の濃い作品だった。
考えてみたら、川瀬直美監督なのだから、お気楽作品であるわけはない。
娯楽や気分転換でなく、ずっしりとしたきちんとした作品を見たいという方お薦めできる作品です。

******
どら焼き屋の雇われ店長千太郎(永瀬正敏)の店に、徳江(樹木希林)という76歳の女性がやってきて働くことになる。徳江が小豆と対話をするように心をこめて丁寧に作った粒あんはとてもおいしく、評判となり、店に行列ができるほどになる。ところが、徳江さんの抱えている事情がうわさで拡がってしまうと、客足は途絶えてしまう。
*******
作品の最後の部分で、徳江さんが店長にあてた手紙の文が徳江さんが読み語るシーンが流れる。
「私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。
 だとすれば、何かになれなくても、私たちには生きる意味があるのよ。」


徳江さんがこの境地に達するにはどれほどの辛い時間が流れたのだろうかと思う。
覚悟を決め、耐え抜いた徳江さんの人生。
そんななかで「私たちには生きる意味があるのよ。」と言った徳江さん。
「すごい。」としか言いようがなく、その達観した心のあり方に圧倒されてしまった。

『かもめ食堂』

刺激を求めて映画を見たい方にはお薦めしませんが、ちょっとした時間をほっこりとした気分で過ごしたい方にはお薦めできる1時間42分の作品。

舞台はフィンランドの首都ヘルシンキ。そこでサチエ(小林聡美)は「かもめ食堂」という“おにぎり”や“焼きサケ”など、日本食をメインにした食堂を始める。客はまったく来ない。それでも、コップを磨き、店内のテーブルを拭きながら、来店者を待つ。
ひょんなことから、ミドリ(片桐はいり)と知り合い、ミドリはサチエの家に転がり込み店を手伝うことになる。さらに、20年にわたる両親の介護から解放され、外国旅行をしようとフィンランドを選んでやってきたマサコ(もたいまさこ)も、この店を手伝うことになる。

個性的で味のある女優陣がいい。
かもめ食堂に初めて入店したトンミ・ヒルトネンというという日本かぶれの青年に「お客様第1号だからコーヒー代は永遠にただ」にしてしまうサチエの気前の良さも気持ちがいい。でも、このお店、本当にやっていけるのだろうかと心配になってしまうが。

おいしいコーヒーや新たにメニューに加えたシナモンロールが好評で、はじめは好奇の目で店をのぞいていたフィンランド人のオバサンたちも来店してくれるようになり、客は徐々に増え、ついに満席になる日を迎える。

人間が生きていくうえで「食べること」とは大切なことなのだとあらためて感じさせられた。
サチエは来てくれたお客様を歓待し、ただひたすら、おいしいものを食べてもらおうとする。
きっと儲けなんて度外視で、つぶれない程度にお店が営業できればよいのだろう。

結局、なぜサチエがフィンランドに住むことになったのか、その辺の事情はまったく明かされない。ミドリがフィンランドを選んだ理由は、目をつぶって地図上のどこかを指さしたらそこがフィンランドだったからということではあるが、そこにいたるまでのミドリの過去については何も触れられていない。マサコについては、両親の介護に20年しばられてやっと足かせが外れたから、という事情があり、リセットのための外国旅行なのだろうと推測できるが、フィンランドを選んだ理由が、「エアギター選手権を行うようなおおらかな国民性に魅かれて」というのも根拠薄弱なような気はする。

特にサチエの過去に全く触れていないところが、見終わった直後、何か物足りない気がしてしまった。(最後にきっと明かされるのだろうな、と、勝手に思ってみてしまっていたので。)

が、しばらく時間をおいてあと、気持ちが変わっていた。
お風呂に入りながら、ゆっくりとこの作品について考えてみたら、「それでいいのだ!」という思いがわいてきたのだ。
過去なんて、どうだっていいのだ!
人は、誰だって、悲しい思い、辛い思いを抱えて、それを乗り越えながら生きているのだ。
それを吐き出したければ吐き出せばいいけれど、いちいち会う人会う人にそんなこと説明していられない。
お店に来てくれたお客さんを「いらっしゃい!」と明るく招き入れ、おいしいものを食べてもらって、幸せな気持ちになってもらう。それがサチエにとっての喜びであり、幸せなのだ。

なぜフィンランドに住んでいるのか。なぜ日本を離れたのか。
フィンランドの人はそんなことをサチエに問うたりしないだろう。
日本にいたら、根ほり葉ほり、どこの出身で、いままで何の仕事をしていたのか、家族は?子供は?と、聞かれてしまうだろう。
そんな煩わしさがないのも、それがまた外国暮らしのいいところかもしれない。

誰かのために、おいしいもの心をこめて作ること、そしてそれができること。
それって、人が生きていくうえでとても大切なことで、大きな喜びとなるのだな、ということをあらためて感じた。
プロフィール

萩谷功枝

Author:萩谷功枝
世界史教師をしています。

映画や本の紹介、最新のニュースから感じたこと、など自分の日常を通して、世界史のことを考えていけたらと思います。

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

検索フォーム
リンク
QRコード
QR