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博士と彼女のセオリー

Amazonプライムで配信されていたものを自宅のテレビ画面で見ました。
2014年のイギリス映画。
車椅子の天才科学者として有名なホーキング博士の伝記物語。

“ブラックホールの特異点定理”といわれても私にとっては、何のことかはさっぱりわからないのだけれど、『ホーキング博士、宇宙を語る』で有名な宇宙物理学者スティーヴン=ホーキング博士の人生を描いた作品です。彼は20代でALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し、余命2年と言われながら、その後50年あまりを、自分の体を自由に動かすことができない状態の中で生き抜きました。

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ALSは最もなりたくない病気とまで言われる。
脳や末梢神経からの命令を筋肉に伝える運動ニューロン(運動神経細胞)が侵される病気で、筋肉を動かそうとする信号が伝わらなくなり、筋肉が動かしにくくなり、筋肉がやせ細っていく病である。手足・のど・舌の筋肉がだんだん動かせなくなって、しゃべれなくなり呼吸もできなくなっていき、回復することはなく、やがて死に至る。しかし、知覚神経や自律神経は侵されないので、視覚や聴覚などの五感や、記憶・知性をつかさどる神経には障害は見られないという。
体を動かせなくなり、自分の声で自分の意志を伝達できなくなりながら、意識はしっかりしているというのは、辛すぎる。

20代の学生生活を謳歌しているまっただ中でこの病気を発症し、余命2年を宣告されるというのは、どんなに絶望的でしんどかっただろうかと思う。

困難な状況を生き抜いたスティーヴンには彼を支え続けたジェーンの存在があった。
ジェーンは強い。人生の中の岐路にさしかかったとき、強い意志をもって決断している。
ジェーンは、恋人スティーヴンのALS発症に対して、結婚という選択した。
難病患者の夫の身の回りの面倒を見るのは半端なく大変なことである。
そんな状況の中でこの夫婦は三人の子を設けた。
スティーヴンが肺炎をおこし、生命が危険な状態になり、生命維持装置に入れられた時、
ジェーンは、スティーヴンの意識が全くない状況の中で、「気管切開手術をして呼吸装置を入れ、覚醒の処置をする」ことを希望した。
このまま覚醒させないで死を待つ方が本人も苦しまずに済むという医師からの提示があったのにもかかわらず。
しかも、呼吸装置をつけたら声を失うというという事も承知の上で。
この場面でのジェーンの毅然とした態度は印象に残った。

ジェーンの強い意志をもった生き方はすがすがしい。

その後、スティーヴンの介助を担当するエイレンという存在ができた時、ジェーンはスティーヴンと離婚し、苦しい時期を支えてくれたジョナサンと再婚する。
しかし、離婚後も、スティーヴンとジェーンは友人のような良好な関係を続けたという。

物語のラストで、スティーヴンが語った。
「いかに不運な人生でも、何かやれることはあり、成功できるのです。
命ある限り、希望はあるのです。」
この言葉は、ALSという難病を抱えながら50年余りも生きたスティーヴンの言葉なので、困難を乗り切って生きた人の言葉として、深く心にしみる。
見終わった時にさわやかな気持ちになれるような作品だ。
実話であるという事の説得力は大きい。

しかし。
もしも、自分がALSという難病に直面してしまった時、スティーヴンやジェーンのような生き方ができるだろうかというと、まったく自信がない。
実は、ALSという診断を受けたことを原因に自死を選んだ知人がいる。
周囲の人(家族)に負担をかけることをよしとせず、自分の体の動くうちにと考えたのだろう。
潔さすら感じさせるあっけない死だった。
私は彼の選択を否定する気にはなれない。

それでも。
ALSという過酷な病気と闘いながら生き抜いたスティーヴン=ホーキングという人がいたという事実は、絶望的な状況の中にも希望の光を見出だすことができるきるということを示しているように思う。

「走る」映画

抗がん剤の投与が終了してから7か月以上が過ぎた。投与中、集中力がない、何をやっても楽しいと感じられないという症状に苦しめられ、それは、今現在、かなりよくなってきているとはいえ、まだ、以前の状態には戻っていない。
読書はかなり楽しめるようになってきたのだが、映画となるとハードルが高くて、なかなか見ることができないでいた。
映画が「ハードルが高い。」などと書くと、レベルの低さにあきれられそうだが、メンタルをやられてしまうと、2時間もの作品を集中して見ていられないし、ずっしりと重いテーマを扱ったものなど、見ていて息苦しくなってしまうのだ。
ハラハラドキドキするサスペンスものやギリギリのところでピンチから脱出するようなアクションものを面白いと感じるのは健康な人なのだと思う。平穏な日常を離れて、しばし、非日常の刺激を楽しみたいという幸せな人なのだ。
今の私はむしろ刺激が怖い。アンハッピーな結末が怖い。見終わった後、落ちこんでしまいそうだし、引きずってしまいそうなので怖いのだ。

そんな私が久しぶりに映画を見た。と言っても、劇場ではなく、Netflixで配信されたものをスマホの画面で見ただけだけれど。

見た作品は『風が強く吹いている』三浦しをん原作の、弱小駅伝チームが箱根駅伝の出場をめざすというもの。
小出恵介と林遣都の走る姿が美しい。(小出恵介、女子高校生に淫行をしたとかで、現在、謹慎処分となっているようだがどうしているかな。彼の出演した映画が配信停止になったり、彼の出演シーンがカットされている作品もあるようだが、なぜか、この作品は無事、配信されていた。)

人が「走る」姿は美しい。私は、人が走っている映像を見るのが好きだ。
これに美しい音楽が加わった、それだけで涙があふれてきてしまう。

思い起こせは『マイウェイ』。これは1975年の映画で、学生だった頃、劇場で見たのを思い出す。テーマは家族であり、父と息子の確執であり、それをマラソンに挑むことを通して描いている。音楽は言わずと知れた名曲マイウェイ。
まだ若かったし、映画館でボロボロと涙を流した記憶がある。
ただし、この映画には突っ込みどころがある。舞台が南アフリカなのだ。
それなのにアフリカ系黒人は一人も登場しない。
美しい空、美しい海、美しい街並み。
南アフリカの白人社会が、快適な住環境のもとに成り立っているのがわかる。
当時、南アフリカはアパルトヘイトも撤廃されておらず、ネルソン=マンデラも収監中の身だった。アフリカ系住民は差別され劣悪な住環境のもとで暮らしていた。
それを考えると、そこに目を向けずに、豊かな白人社会をノーテンキに描いていいのかと言いたくもなるが、テーマはそこではないという事になるのだろう。
舞台が南アフリカであることをとりあえず無視すれば、「走る」という事の素晴らしさを描いたこの作品は、私の若かりし日に見た作品の中でも好みの一つだ。

炎のランナー』も音楽が感動的。宗教がからんでいるけれど、人が走っている映像と美しい音楽があれば、それだけで感動的な映画になってしまうような。(もちろん、そんな簡単なものではないけれど。)

ミニシアターで上映していた『人生はマラソンだ』というのもあったな。
倒産寸前の自動車修理工場の経営者が、4人のメンバー全員がマラソンを完走すれば4万ユーロの出資をしてやるというスポンサーを獲得してくる。会社再建のため、メンバーは頑張るのだが、オッサンばかりのメンバーは運動不足にメタボ。そして何より、修理工場の経営者は末期がんで余命宣告までされている。それをまわりに隠して、無謀ともいえるマラソン完走に挑戦するのだ。
結末を何となく想像できてしまいそうなストーリーなのだが、メンバーそれぞれが事情を掲げ得ながらマラソンに挑戦していくところがいい。

「走る」映画には、はずれはないような気がする。ゴール直前で主人公がぶっ倒れてよろよろになりながらゴールする(あるいはできない)というお決まりのパターンが臭くて嫌いだという方にはお薦めできないけれど、なんといっても、人が力を振り絞って走る姿は、見ている者の心を打つ。



『チョコレート・ドーナツ』

ゲイのカップルがダウン症の少年を育てようとするお話。
2012年のアメリカ映画。
舞台は1979年のカリフォルニア。

今でこそ、LGBTという言葉がようやく根付きはじめ、性的マイノリティ-に対する差別や偏見はやめましょう、と言われるようになってきたが、70年代頃は、ゲイのカップルは、まるで汚らわしいもの、というような視線を浴びせられていた。

チョコレート・ドーナツとはダウン症の少年マルコの大好きな食べ物。
「体に悪いよ。」と言われながらも、チョコレート・ドーナツを食べる時のマルコのうれしそうな顔は最高。とびきりの笑顔だ。
ダウン症のマルコは、人とスムーズにコミュニケーションをとることができない。
人から質問されても即答はできず、無表情のまましばらく間をおいて、ぽつりと答える。
そんなマルコのこのことをわかっていれば、時間はかかるけれど、マルコの気持ちを理解することはできる。
好きなものはなにかという質問にもちゃんと答えられる。
マルコは、自分を主人公にしたハッピーエンドで終わるお話が大好き。
ルディの創作するそういうお話を聞くのが大好きで、いつもルディに「お話して」とねだる。
お話を聞くときのマルコは本当に幸せそうで、素敵な笑顔になる。

ゲイのルディは、マルコとめぐりあったことで、この少年を笑顔にしたい、幸せな気持ちでいて欲しい、と心から願ったのだろう。
差別と偏見にさらされているルディにとって、守るべきものの存在は、心の支えになったのだろうと思う。


マルコは実の母親から育児放棄された少年で、母親が男とあっている時、よく部屋から閉め出されていた。そんなダメ母親が、危険薬物所持で逮捕されてしまい、残されたマルコは施設に引き取られるのだが、そこになじめないマルコは脱走を繰り返し、街をさまよっていた。ある日、街をさまようマルコに遭遇したルディが、彼を自分の家に連れ帰る。この時、ドーナツを食べるマルコの笑顔をみて、ルディはマルコを引き取りたいと思ったのだと思う。

検事局のポールと心を通わせ合い、つきあっていたルディは、自分たちがゲイのカップルであることを伏せ、法律に強いポールの力もあって、法的手続きによりマルコの監護者となって、三人で暮らし始める。
マルコの笑顔にあふれる時間が流れる。
マルコの笑顔はまわりの者を幸せにする力がある。


しかし・・・。
ルディがどんなにマルコを愛し、マルコがルディなついていていても、ゲイをどうしても認めることのできない「あの男」と二人が呼んでいるような人物もいる。ルディとポールのことをまるで汚らわしいものというような目つきでにらむ「あの男」。
もちろん、ルディがマルコに注いでいる愛情を理解し、ルディを養育者としてふさわしいと認めてくれる養護学校の教師など、周りの温かい人たちもいるのだが、世間の冷たい目は、厳しい。

ルディとポールとマルコの三人をめぐる状況は一気に悪化し、二人はマルコの養育者と認められず、不利な裁判を展開することになる。

***********
日本では、2016年12月に、大阪市でゲイカップルが養育里親に認定され、今年2月から10代の男の子1人預かることになり、育てているという。
育児放棄の親、虐待する親の元にいるよりは、形は世間一般とは違うマイノリティであっても、愛情のある人のもとで暮らす方がどんなに幸せかと思う。
日本でも、ようやくそうした価値観が根付いてきたのだと思う。(ただし、養子となると、法的にまだまだハードルは高いそうです。)

そして、もう一つ。ルディのように心と体の性が一致しないというのは、とてもとても、苦しいことだろうと思う。その場合、人にとって心が一番大切なものであるから、心の方に一致させるしかない。しかし、そうすると、心は女でも、体は男なのだから、ひげも生えるし、見かけはどうしても、男性なのに女装している人、としか見られない。
心と体の性が一致して生まれてくれば何もする必要のない苦労を、たまたまそれが一致しないで生まれてきてしまったLGBTの方たちは、人間として最も基本的というべき男なのか女なのかという己の性のことで苦労しなくてはならない。
そして、生物学的にそれは一定の割合で存在する。ネットで調べたところ、7.6%だそうだ。
だとしたら、性的マイノリティの人たちも生きやすい社会でなくてはならないと思う。

以前、電車の中でスーツケースがぶつかったか何かのトラブルで突然切れた男が、相手がLGBTと見てとるや、スーツケースを思い切り蹴飛ばして、「気持ちわりいな、このおとこ女!」と言い捨てて、電車から降りていった。
車内の雰囲気が一瞬凍った。
その時、そばにいた女性が、スーツケースを蹴飛ばされた方に、「大丈夫ですか?」と声をかけた。声をかけられた方は、静かにうなずいて微笑んだ。それだけで車内の空気が和んだ。
とっさの場面でそんな風に声をかけられたその女性は、マイノリティの立場に立ってものを考えられる人なのだろう。

『チョコレート・ドーナツ』はそんな出来事を思い出させてくれた)作品でした。

『いつか晴れた日に』

18世紀末から19世紀初めころの、イギリスの貴族の女性を描いた作品。
貴族にも裕福な貴族も貧乏な貴族もいる。財産のない貴族身分の女性は、自分で働いて収入を得ることもできず、不自由なものだと思った。
打開策は、条件のよい結婚という自力ではどうにもならないことしかない。
そんな当時のイギリス社会を舞台にした、財産のない貴族の姉妹の物語です。

原作は、ジェーン・オースティンの『分別と多感』
『分別』とは姉のエリノア(エマ・トンプソン)を表した言葉で、『多感』は妹のマリアンヌ(ケイト・ウィンスレット)のこと。
辛い状況の時も感情をあらわにすることなく、ひたすら耐えるエリノアは、少々地味なくらいである。一方、妹のマリアンヌは、褒められればうれしくなるし、ひどい状況に陥ってしまった時は悲嘆し、荒野をさまよってしまうほど激しく心乱れてしまうなど、感情がむき出しになる。マリアンヌは美人で華やかで魅力的。
性格のまるで違う二人の物事に対する反応の仕方の違いが興味深い。しかし、この姉妹は(三女の年の離れたマーガレットも含めて。)仲が良く、支え合って生きている。
遭遇する不幸な出来事に対して、それぞれの受け止め方で、

(あらすじ)
姉妹の父親である貴族のダッシュウッド氏が亡くなる。広大な土地を分割したくないというダッシュウッド氏の遺志で、遺産は先妻の子ジョンが受け継ぎ、後妻である姉妹の母と姉妹たちには年金で生活を保障する、という事なった。
しかし、その年金はジョンの妻ファニーにより、減額され、さらに母と姉妹が住んでいた邸宅を乗っ取られ、母娘は親戚の厚意で田舎のバートン・コテージという空き家だった住まいに移り住む。元の邸宅では召使のいる生活だったがそれもなし。
この間、エリノアにもマリアンヌにも、それぞれ心を寄せる恋人ができるのだが、その恋人にはるか昔に約束を交わしたという婚約者がいたり、だらしない過去の過ちのせいで負債を負っていたがために金持ちの貴族の娘との結婚にのりかえられて捨てられたり、と気の毒としか言いようのない裏切りにあう。

ショックを受けたマリアンヌは嵐の日に荒野をさまよい、それが原因で病いに倒れる。
不幸のどん底の状況が姉妹を襲う。
*******
「さて、物語の結末はどうなるのだろう。」と結末を想像しながらワクワクして、終盤の展開に夢中になっていく。
ストーリーの展開としては、様々な可能性があるわけだ。
金銭的に困窮してもっとみじめな状況に陥るかもしれないし、このまま田舎で質素ながらも静かな生活を続けていくかもしれないし、あるいは突然大金持ちの庇護者が現れるかもしれないし、もしかすると、姉妹のそれぞれに素敵な結婚相手ができるかもしれないし。
映画を見るのは、だから楽しい。
そして、作品を見終わったあと、いろいろなことを考えてしまう。

マリアンヌのように、感じたこと思ったことを素直に表現するのもいい。
エリノアは次々におこる不幸な出来事にじっと耐え、運命として受け入れながら、それに負けてしまうことはない。
静かな強さのある女性である。
どちらがいいとか比較する必要はない。それぞれの性格なのだ。
この姉妹をみていると、遭遇する出来事に対する反応の仕方は様々だと思う。
しかし、どうであれ、その人なりに何とかしていく。
この姉妹なら、支え合って、様々な出来事を乗り越えていけるだろう。



そして、ふと思う。
人生何が起こるかわからない。
先のことを思い煩ったって仕方ない。
起こらないかもしれない不幸におびえて不安になるのは馬鹿馬鹿しい。
その時、その時に、それに対応していくしかない。
結局、おきまりの言葉になってしまうけれど、
「なるようにしかならないさ。」と大きく構えて生きていけばいいのだ、というところに気持ちが落ち着いた。
この作品を見終わって考えたことは、まあこんなことでした。
作品の意図(というものがあるとするなら)からは、おそらく大幅にそれているとは思いますが。

1995年製作のアメリカ・イギリス映画。
この作品では、エリノアを演じたエマ・トンプソンが脚本も担当し、アカデミー賞の脚本賞を受賞している。

『幸せの隠れ場所』

映画通の友人に、「ハッピーエンドで元気の出る作品があったら教えて欲しい。」と所望したところ、この作品を薦められた。
彼女はもう何(十?)年も、ほぼ毎週のように公開中の映画を見ていて、昔の作品から、今、話題となっている作品まで、実の詳しい。さらに、私の勝手な要求に即、対応してくれるあたり、いったい彼女の頭のなかの引き出しにどれだけ映画が詰まっていて、どのように整理されているのかと知りたくなる。

ともあれ、質問に答えてくれる人が、身近にいるというのはありがたい。
便利な世の中になったもので、タイトルさえわかれば、Netflixやアマゾンプライムで検索すればかなりの確率で視聴可能となる。TSUTAYAの旧作コーナーも充実している。
見逃してしまっている質の高い作品を掘り出すことが容易にできるようになった。
どんな作品が見たいのか、映画に何を求めているのかがはっきりしてくれば、作品選びができるように思う。
まったく映画を見なかった時期もあるので、私は、正直、映画にはあまり詳しくない。ブログを始めたのは、それをなんとか埋め合わせたいと思ったからで、人より10年20年遅れている状態ではあるのだが、タイミングをずらして、話題性がなくなったころに良品を掘り起こすというのも、ちょっと面白いかなと思っている。

暇つぶしに私のブログを読んで下さった方が、「これ、見てみようかな。」と思って下さることがあったとしたらうれしい。
なので、映画通の友人に教えてもらった作品をみて、「いいな。」と思った私が、さらに薦めるという、2010年に日本で公開されたものを今さらという、だいぶタイミングのずれた作品紹介です。(毎度のことですが。)

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この作品は、マイケル・オア―という2009年のNFLドラフト1巡目でボルチモア・レイブンスに指名されて入団したフットボール選手の物語。つまり、実話をもとにつくられている。

ホームレス状態で、その日の寝場所を求めてさまよっていたマイケルに遭遇したリー・アン(サンドラ・ブロック)は自分の家に連れて帰る。そこからマイケルとリー・アンの家族との関わりが始まる。
裕福な白人家庭というのは、素性もよくわからない黒人の少年をいきなり家に招き入れて面倒を見てしまうことができるのだ、ということに驚くが、そうしたリー・アンの行動をおおらかに、当たり前のこととして受け入れる夫や2人の子供のおおらかさもまたすごいと思う。

身体の頑丈なマイケルの特徴を見込んだリー・アンは、マイケルにフットボールをさせてみる。最初はゲームの進め方すらわかっていないマイケルが、どんどん才能を開花させていく。

リー・アンの家族はマイケルを家族として受け入れ、姉のコリンズも弟のS・Jもマイケルを応援し、支えていく。特にS・Jとマイケルは大の仲良し。
これがもしフィクションだったなら、作り方が甘いとかツッコミを入れたくなるところ。
知らない人物がいきなり家の中で暮らし始めて、うまくいくだろうか?とか。
しかし、これはマイケル・オア―という実在の人物をもとにしたストーリーなのである。
ほぼ実話ということが何より説得力となる。


うまくいくときはうまくいく。
そのためには様々な好条件や偶然が重なっているのだろう。

リー・アンを演じたサンドラ・ブロックはこの作品で2010年のアカデミー主演女優賞を獲得。さばさばして、正義感が強くて、やろうと思ったことに突っ走るリー・アンの姿は、見ているものをさわやかな気持ちにしてくれる。

マイケルが育ったのは貧困地区で、犯罪に手を染めているようなワルがいっぱいいる。そんな中で、何故、マイケルが、悪い道に引きずり込まれず、平和主義者のごとく、やさしく素直な心をもって成長できたのか、など考えたいことはいっぱいある。
が、結果オーライでいい、と思えた。
リー・アンとその家族に迎え入れられたマイケル・オアーは一流のフットボール選手になれたのだ。
ハッピーな作品は見終わった後は、ハッピーな気分になれる。
プロフィール

萩谷功枝

Author:萩谷功枝
世界史教師をしています。

映画や本の紹介、最新のニュースから感じたこと、など自分の日常を通して、世界史のことを考えていけたらと思います。

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