『世の中をよくして 自分も幸福になれる 「寄付」のすすめ』

2011年4月に設立された「READYFOR?」というクラウド・ファンディングがある。

クラウド・ファンディングとは、インターネットを利用して、不特定多数の人々から資金を集めるやり方をいう。
「READYFOR?」は、主催者が示したプロジェクトに対し、賛同した人が引換券を購入するという方法をとっている。引換券の内容は、サンクスレターの送付などなので、これはインターネットを利用した「寄付」といえる。

購入の方法はクレジットカードを利用していて、もし、募集期間内に目標金額に達しなかった場合は、そのプロジェクトは成立せず、引き落としは実行されない。

引換券を購入すると、支援したプロジェクトが成立するかどうかが気になって、募集期間終了間近になると、チロチロとネットを開いては、達成金額を確認したりする。
ここのところがちょっと面白くて、購入した側としては、参加している感が味わえる。

また、どのプロジェクトを支援するかは、購入する側の選択なので、どれを支援するかを選ぶ面白さも楽しめて、強制ではなく、自発的に支援しているという感覚も味わえる。

私は、「閉鎖の危機にあるモンゴルの孤児院を存続させたい!」というプロジェクトの引換券を購入した。
これを選んだ理由は、主催者の照屋朋子さんが、マンホールチルドレンのことを知ってモンゴルとかかわることになったというきっかけや、その後の孤児院との関わりなどを、丁寧に報告していて、それに共感したことと、信頼できる活動の仕方であると思ったからである。
このプロジェクトは、4月30日までの期間内に見事、目標金額に達成した。

5月31日(土)、チャリティー・カフェという形で、このプロジェクトの報告会があり、行ってきた。
私としては、全く知らない人たちの集まりに一人で参加することは今まであまりなかったので、少々緊張した。が、行ってみて本当に良かったと思っている。
照屋さんは、我が家の娘たちと同世代の若い女性で、このかわいらしい女性のどこにそんなパワーが秘められているのかと不思議なくらい、熱意と行動力にあふれる人だった。

たまたま、同じテーブルに着いたメンバーと、自己紹介をしあい、全員とFacebook上のお友達になった。
若い方たちばかりだったので、少々気がひけたが、みんなそんなことに頓着せず、親子ほど歳の離れた私を疎外することなく温かく接してくれて、うれしかった。
そのうちの一人の方は、私のこのブログの読者になってくださった。
いつもちょっとしたコメントを返してくれるので、私としては、すごく励まされて感謝している。
もう一人の方は、Facebookに、読んだ本の紹介を載せている。興味の対象が私と共通しているのか、実際に、彼が紹介した本を購入して読んでいるところなのだが、面白い。

そのうちの一つが以下の本である。
『世の中を良くして 自分も幸福になれる「寄付」のすすめ』
近藤由美著  東洋経済新報社

「寄付」の歴史、種類、方法、その効果など、基本的なことが学べてわかりやすい。
著者は、「寄付」をすることは、社会貢献になるとともに、それをした自分自身も幸福感が得られる、ということを述べている。

ほんとにそうだなと思う。READYFOR? の引換券を買わなかったら、今回のイベントに参加することもなかったし、彼らと知り合うこともなかった。
間違いなく世界が広がった。

先日、照屋さんの主催するNGOユイマールからの郵便物が届いた。
仕事で少々疲れて帰った日だったので、メールボックスにそれが入っているのを発見したとき、ちょっとうれしかった。

中に、モンゴルの孤児院の子が、一生懸命練習したのであろう平仮名で、「ありがとうございます」と書いたサンクスレターが入っていた。

実際の活動をしていて困難に立ち向かっているのは照屋さんたちユイマールのメンバーで、私はパソコン上でワンクリックしただけなのだけど、それでも、閉鎖寸前だったドンボスコ孤児院がとりあえず1年の存続延長を達成することに成功したことで、うれしい気持ちになれた。
これがまさに、先ほどの本のタイトルのいう、自分も幸福になれる「寄付」ということかなと思う。

今後も、彼女たちのような志のある若者の活動を温かく見守り、支援していきたいと思う。

「世界の果ての通学路」 

4月半ばに見た、「世界の果ての通学路」というドキュメンタリー映画について、書こうと思ってかけないうち遅くなってしまい、銀座での上映は終了となってしまった。
(役に立たない情報ですみません。でも、YouTubeで予告編が見られます。
この1分50秒の予告編、一見の価値ありです。)


世界の果ての通学路

「世界には、学校に行くために想像を絶する道のりを通っている子供たちがいる。」

ケニアのジャクソンは(11歳)は、片道15kmの道のりを2時間かけて妹とともにサバンナを命がけで駆け抜ける。
アルゼンチンのカルロスは(11歳)は、パタゴニア平原のなかを、片道18km、妹と馬に乗って1時間30分かけて通学。
モロッコのザヒラ(12歳)は友達とともに岩肌の山道を片道22km、4時間。
(てことは、往復8時間!!通学だけで一日が終わってしまう。学校に行く日は毎日ではないようだが。)
インドのサミュ(13歳)は足が悪く、車いすでの通学。車いすを引っ張り、押すのは、サミュの弟2人だ。

通学途中には様々な困難が待ち受ける。
ジャクソンの通学路の危険は象に遭遇することである。
象の気配を感じたら、迂回してコースを変更し、安全を確保する。
ザヒラの友達は途中、足をくじいたのか、足の痛みに耐えかね、歩けなくなってしまう。
ザヒラ達は、途中、通過するトラックになんとか頼み込んで乗せてもらう。
サミュたち兄弟も、楽な行程ではない。なにせお兄ちゃんは車いすなのだから。
サミュたちは、近道しようとして、川の浅瀬を渡ろうとしたら、深みにはまってしまい、抜け出すのに苦労する。さらに車いすのタイヤが壊れる・・・。がたがたになった車いすをなんとか持ちこたえさせ、町の修理屋さんになおしてもらう。

兄弟、友達、みんな仲が良い。
年下の者や、体の不自由な者の面倒を見るのは、当然だと思っている子供たち。
子供たちは、それぞれ協力し、工夫し、時には大人の助けをかりて、なんとか困難を乗り越える。

親たちがやさしい。
「子供たちが無事につきますように」、「学校まで安全であれ」と祈る親たち。
愛情に恵まれた彼らは幸せである。
物質的に恵まれていなくても、通学が大変であっても、一番大切な愛に満たされている。

子供というものは、親の愛情があって、信頼できる友達がいて、学ぶ環境があって、まともな大人に成長していくものなのだと、改めて思った。


見終わって、ホカホカした気持ちになり、帰り道も幸せだった。

「鉄砲を捨てた日本人 - 日本史に学ぶ軍縮」 

引き続き「銃」について。

先日、娘と夕食をとっている時に
どうして、日本は銃のない社会になったのか?」と質問された。
とっさに、
「秀吉が一揆を防ぐために刀狩で農民から武器を取り上げたからだ。」と答えたが、
「それでは不十分だ、不正確だ」という思いが自分の頭の中をかすめた。

1588年、豊臣秀吉は、農民から刀、脇差、弓、槍、鉄砲などを、「大仏殿建立のための釘、かすがいに用いる」と称して没収した。
しかし、農民から武器を奪ったのであって、武士については対象外であった。
当然、どの大名も、自分の武士団の武器には手を付けない。
日本の戦国時代には、有名な長篠の合戦を始めとして、鉄砲が使用された。
あれはいったいどこに消えたのだ?

と考えていたら、Facebookで、「平和教育地球キャンペーン」さんから本の紹介が届いた。

「鉄砲を捨てた日本人」 - 日本史に学ぶ軍縮    
ノエル=ぺリン著 川勝平太訳    中公文庫

渡りに船というのか、あまりのタイミングの良さにちょっと気を良くしてさっそく注文。
(これがAmazonからのお知らせメールで、人の購入履歴から「あなたにオススメの本」とか言うならわかる。つい先日、「鉄・病原菌・銃」を買ったばかりだから。)
お急ぎ便で、送料無料。翌日届いた。
そして、この本は、私の疑問に答えてくれた。

以下、どういう過程で日本が鉄砲を捨てたのかについて、この本に書かれていることを要約してみる。

日本は鉄砲を公式に廃棄したことは一度もない。
その代わりにきわめて緩慢ながら、ある時点から鉄砲を削減していった。
1607年に徳川家康は法度で、日本の鉄砲鍛冶を国友に集中させた。(堺は例外)
鉄砲は幕府の許可の下にのみ製造可能となり、しかも鉄砲代官は、幕府の注文以外ほとんど許可しなかった。
(つまり、鉄砲を没収したのではなく、製造を抑制した。)

鉄砲が重要な役割を担う最後の戦争が1637年の島原の乱であった。
この島原の乱が鎮定された後の200年間、日本人は積極的に鉄砲を使うことはなかった。
武士は剣術の修行に再び励むようになり、日本中の熟練鍛冶は鉄砲ではなく、高級甲冑や刀剣を次から次へと製作した。

なぜ、日本は火器から背を向けたのであろうか?
この答えとして、著者のぺリンは以下の5点を挙げている。
(カッコ内は私が勝手に補足しました。)

1.「日本には武士が多勢いた。」
(総人口の約8パーセントと推定していて、これは中世ヨーロッパの騎士の割合などからみても格段に多い。そして彼らは、ほとんどが鉄砲嫌いであった。)

2.「日本は中国を征服するには小国すぎた。一方、どの国にせよ、あえて日本の征服に乗り出すには日本は強国すぎた。」
(つまり、他国を侵略する気もなく、侵略される危険も少なかった江戸時代の日本において、国内の治安を守るだけなら鉄砲は必要なかった。)

3.「日本では、刀剣が大きな象徴的な意味を持っていた。」
(武士のみが帯刀を許された。戦国時代の鉄砲隊は、農民もしくは郷士や地侍上がりで編成され、鉄砲は、卑しい身分の者が扱う武器だった。武士にとって高貴な身分を象徴する武器は刀剣で、鉄砲ではなかった。)

4.西洋人の思想に対する反動的な潮流が存在し、外来の武器である鉄砲に対する反発があった。

5.「美的感覚。」 刀剣は飛び道具よりも品位の高い武器であった。
(鉄砲を撃つ姿より、剣術の方がかっこいい。時代劇の殺陣(たて)では、主人公が美しい刀さばきで悪人をやっつけている。鉄砲なんぞを持ち出したら卑怯者という価値観が日本人にはある。)

なるほど。
世界史のなかでも、たぐいまれな260年間という長期にわたって平和を享受した日本の江戸時代は、鉄砲を必要とせず、徐々に鉄砲という武器を放棄していったのだ。

この本は、「なぜ、日本は銃のない社会をつくりあげたのか?」という私の疑問に答えてくれた。

しかし、この本は、ここに留まってはいない。
訳者の川勝平太氏が言っているように、
この本は、「日本の歴史に教訓を汲みとった反戦・反核の書である。」のだ。

ぺリンは、江戸時代の日本が鉄砲を放棄したことを、「世界史におそらく類例を見ない」と注目している。
「高い技術を持った文明国が、自発的に高度な武器を捨てて、古臭い武器に逆戻りする道を選んだ。
そして、その国日本は、この逆戻りの道を選びとって成功した。」


江戸時代の日本は、鉄砲を製造できる高い技術を持ちながら、あえて、鉄砲を捨てた。
製造できなかったのではなく、製造しなかったのである。
そして、武器製造部門では、世界的なレベルで言うと、あえて低い水準に落としながら、その他の部門での日本のレベルは極めて高水準をほこった。
例えば、数学者の関孝和、医学の解剖の分野での山脇東洋など。
実用面でも、紙や水道など。

ここからぺリンは以下の結論に至っている。
1.ゼロ成長の経済と中身の豊かな文化的生活とは100%両立しうる。
2.人間は、受け身のまま、自分の作り出した知識と技術の犠牲になっている存在ではない。

必要のないものは廃棄すればよい。
人間は、進歩を止め、逆戻りの道を選ぶこともできる、ということだ。


歴史の中の銃

世界史の史料集に、ドイツの三十年戦争(1618~48)の時の「マスケット銃をかつぐ傭兵」という挿絵が載っている。
マスケット銃とは弾丸がスポッとまっすぐに飛び出す初期の銃である。
無回転の弾丸の軌道は安定せず変化する。
野球のピッチャーが投げる球や、バレーボールのサーブが、無回転だと大きく変化することを思い浮かべれば理解しやすいと思う。
銃はこれでは困る。
これを改良したものがライフル銃で、銃身の内側にらせん状の溝を施すことで、弾丸は進行方向を軸として回転しながら飛び出すようになり、軌道はぶれなくなり、命中後の破壊力は格段に高くなった。
アメリカ独立戦争(1775~83)の時には、すでにライフル銃が使われていたという。

銃はさらに前装式から後装式へと進化を遂げる。
前装式とは、銃身の先端側の銃砲口から銃弾・装薬を装填する方式で、装填に時間がかかり、発射速度が低い。
これに対して、後装式は、装填が容易に迅速に行え、発射速度が速い。

武器の進歩はめざましい

司馬遼太郎の作品の中にも盛んに銃の名称が登場する。
幕末から戊辰戦争にかけて、諸藩は銃の購入に力を注いだ。
長州藩・薩摩藩を相手にしたトマス・B・グラバーや、東北諸藩を相手にしたスネル兄弟など「死の商人」が暗躍する。
長州藩が最新の武器を購入していたころ、東北諸藩は、旧式銃を安く購入していた、というようなくだりがあり、興味深く読んだ記憶がある。
(どの作品のどの部分だったかが、今、どうしても思い出せないのだが。)

この頃の銃についてまとめてみると、概ね以下のようになる。

1868年頃、会津藩は、すでに時代遅れであったゲベール銃(滑空式・前装式)を廃棄し、ミニエ-銃(施条式・前装式)を盛んに輸入調達した。
しかし、会津戦争時、ミニエー銃が主力であった会津藩に対して、新政府軍はスナイドル銃(施条式・後装式)が中心であった。
当時、一番レベルの高い銃はスペンサー銃で、これは、施条式・後装式で連発式であった。
「八重の桜」の山本八重が会津戦争で使っていたのは、スペンサー銃で、これは、兄の覚馬が長崎に行ったときに購入し、八重の結婚祝い(川崎尚之助との)に贈ったものだという。

武器のレベルは戦局を左右する。
しかし、最新式のものは高価となり、大量には購入できない。
戦力は当然、藩の経済力にも左右されたのだ。


映画「スターリングラード」でも銃に関することが印象に残る。
スターリングラードの戦いは第二次世界大戦の戦局を大きく変えたもので、ソ連軍はドイツ軍以上の犠牲者を出して、この戦いに勝利した。
それまで破竹の勢いでヨーロッパを制覇していたドイツ軍がここから負けに転じ、敗戦への道をたどっていくことになる。

この戦いにおけるソ連軍の隊長の指示に驚かされる。
「銃は二人に1丁だ。持っていないものは、死体から取り上げろ。」!!!
銃を持たない兵士を前線に立たせて突撃させる、という信じられない戦いぶりだ。
農民を多く動員し、兵力は調達したが、それに見合うだけの銃は調達できなかったということだ。

その後、ソ連は銃の製造に力を注ぐ。
そこで製造されたのが、設計者の名前からカラシニコフと呼ばれるAK-47という銃である。

この銃は、簡潔な設計で、耐久性にすぐれ、どんな過酷な環境でも確実に作動したという。ベトナム戦争では、米軍の高性能の銃が高温多湿のベトナム森林地帯で故障が続出したのに対し、南ベトナム解放戦線が使うAK-47は、確実に動作したという。
いわば“simple is best” ということか 。
単純にしたことで、メインテナンスもしやすくなった。
現在に至るまで、何段階もの改良がくわえられているが、カラシニコフという名称は引き継がれている。
しかし、シンプルな設計であるということは、量産にも向いており、コピー商品が続出するということになる。当然、安価で手に入るから、現在起こっている紛争地域の過激派集団に流れているのも、この拳銃であるという。

人間はものづくりの名人だ。
改良を加えてより高度なものをつくりあげる能力に長けている。

むしろ、この能力を抑えさせることの方が難しい。

5月上旬、3Dプリンターで殺傷能力のある拳銃を作った男が逮捕された。

立体的にものをコピーしてしまうこの機械は、医療の分野などで活用されていて、今後も様々な分野の発展に大きく貢献するであろうと期待されている。
それをよりによって、人を殺すためのものを作ることに利用するとは....と、ため息が出るが、当然、起こりうることではあった。

逮捕された男は、「拳銃が大好きで、銃が違法な日本でどうしたら持てるか考え、自分で作ろうと思った。」と動機を供述したという。
とんでもない。
殺傷能力のあるものであれば、たとえプラスチック製であろうが、『所持』すれば銃刀法違反。製造すれば、武器等製造法に違反し、3年以上の有期懲役となる。

また、「体力的に弱い者の自衛手段として拳銃は必要だ。」と持論を展開したという。

必要だろうか?
弱いものがそんなものを持っても、どうせ使えはしない。
使ってしまえば、その場で犯罪者になる。
使えないものは、安全確保のお守りにはなりえない。

狩りをして暮らしていた時代や戦乱の世の中だった頃とは違う、21世紀の日本において、銃はいらない。
ただし、これは、日本だからいえること。

世界の多くの地域では、これは通用しない。
簡単に作れる方法があったら、それはあっという間に広がるだろう。

2013年12月に94歳で死去したカラシニコフは、一部の国が、AK-47をコピーした模造品を勝手に生産し始め、それが紛争地域に広まっていることに不快感をあらわしていたという。
一部の国が勝手に作って、外貨獲得のために、どこにでも売る。
この事態は、防がなくてはならない。
世界的な監視が必要になっていくだろう。

「私たちは、死の商売でお金儲けをしてはなりません。」
「国際武器市場を自由貿易の原理に任せてはならないのです。・・・・・・・・この武器貿易は、独裁者の友であり、人々の敵である場合がほとんどなのですから。」    (by オスカル=アリアス )



追記:カラシニコフについては、松浦晋也さんのブログ「人と技術と情報の界面を探る」から「カラシニコフとAK-47と核兵器」の記事を参考にさせていただきました。


プロフィール

萩谷功枝

Author:萩谷功枝
世界史教師をしています。

映画や本の紹介、最新のニュースから感じたこと、など自分の日常を通して、世界史のことを考えていけたらと思います。

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