『ハンナ・アーレント』 独自の見解を述べる勇気

『ハンナ=アーレント』 2012年のドイツ映画。
日本では2012年秋に岩波ホールで上映され、地味な作品にもかかわらず、中高年女性の観客で、連日満席になったという作品。
遅ればせながら、2015年2月にWOWOWで放映したものを録画して、ゆっくりと観賞した。
心にずっしりと来て、考えさせられる作品だった。


ハンナ・アーレントはドイツ系ユダヤ人の政治学者・政治思想家。
ナチスの迫害を逃れるため、1933年にフランスへ、その後、1941年にアメリカにわたる。
(フランスは、1940年にドイツに占領された後、ユダヤ人を抑留キャンプに押し込めた。
アメリカへ渡ったのは、フランスの抑留キャンプからの逃亡だった。
逃げなければ、強制収容所に移送されていた運命にあった。)
アーレントは、1951年には大著『全体主義の起源』を発表して、名声を得、学会での確固たる地位を築いた。

映画は、1960年、ナチスの戦犯アイヒマンが潜伏先で捕えられ、イスラエルの法廷で裁かれるところから始まる。



アーレントは、この裁判を傍聴して、レポートを書き、ザ・ニューヨーカー誌に発表する。
しかし、この記事により、アーレントは多くの人々からの批判を浴びることになる。

人々の感情を考慮するならば、アイヒマンを、殺人鬼、多くのユダヤ人を強制収容所へ移送することを担当した極悪非道の人物、として描いた方が、受けが良く、多くの人々の共感を得ることができただろう。

しかし、実際に裁判を傍聴し、アイヒマンという人物を見たアーレントは、そうは書かなかった。
なぜなら、アイヒマンが、残虐で凶暴な人物などではなく、ただ、上からの命令に従っただけの、何も考えない小役人的な人物にしか見えなかったからである。

この映画では、法廷の場面に、当時の実際のフィルムを使っている。
傍聴するアーレントの映像と、白黒フィルムの、本物のアイヒマンの映像が交錯する。
そこに映っていた本物のアイヒマンは、いかにも小物といった雰囲気がする人間だった。
感情を殺してしまっているのだろうか。
あるいは、思考停止してしまっていて、もう無感覚になっているのだろうか。
防弾ガラスの空間の中にいるアイヒマンは、他人事のような表情で、
「私はただ、命令されたことをやっただけだ。」 という。

これを、アーレントは「凡庸な悪」とする。

それは、従来から考えられていた「悪魔的な悪」とは違うもの。
動機もなく、信念も、邪念も、悪魔的な意図もない。
人間であることを拒絶した悪。
「凡庸な悪」である。

アイヒマンは、多くのユダヤ人を強制収容所に送った。
その先で行われることは分かっているはずだ。
しかし、命令に従ったまま、事務的に処理したという。

人のせい。
600万人ものユダヤ人を殺した「悪魔的な悪」の張本人はヒトラーであり、ヒムラーであり、自分には何の責任もない、と言いたいのか。。

これこそ、「悪魔的な悪」を助長する恐ろしいものの正体ではないかと思った。


さらに、彼女は、記事の中で次のことを指摘する。
「ユダヤ人指導者は、何らかの形でナチに協力していた。」

これが、イスラエル国民を始めとする多くの人を怒らせた。

600万人ものユダヤ人が死んでいるのだ。
人々の感情からすれば、ユダヤ人は100%被害者であり、ナチスは100%加害者でなければならない。
事実であっても、ナチスに協力したユダヤ人指導者がいたことをえぐってしまえば、「ユダヤ人が悪いというのか?」ということになってしまう。

ナチスの犯罪を擁護しているわけではない。
ユダヤ人を批判しているわけでもない。
アイヒマンを弁護しているわけでもなく、彼の死刑を否定しているわけでもない。

しかし、当時の人々の多くは、アーレントの意見を受け入れがたいものと感じ、記事を読んでない人々さえも、彼女を、「アイヒマンを擁護し、同胞を裏切った冷徹な女」として非難した。
批判の投書の山。鳴り止まない電話。出版するなという脅迫。

それでも、大衆にこびず、非難もおそれず、自分の見解を発表するアーレント。
抑留生活も経験し、自身がガス室に送り込まれる可能性もあったアーレントにとって、アイヒマン裁判を冷静な目で見るということ自体、困難なことであったろうに。

アーレントは、学者として、冷静にアイヒマン裁判をみつめた。
「悪」とは何かについて深く考察し、アイヒマンを「思考の欠如した凡庸な男」として批判した。

彼女には支えてくれる夫のハインリヒと親友のメアリーがいた。
彼女を支持する多くの学生がいた。
そうした存在に支えられ、世界中を敵に回しても、自分の正しいと思ったことを貫こうとした。

今の世の中だったら、あっという間に「炎上」ということになるのだろうな。
Twitterやfacebookでは何か問題発言があると、おびただしい数の支持や非難のコメントが寄せられる。
その中にはまともなものもあるし、元の記事を読んでいないもの、全く見当違いなもの、単なる誹謗にすぎないものまでいろいろ。
そんなことにはかかわりたくないと思っているが、アーレントなら、恐れずに、自分の主張を述べてしまうだろう。


最後に。
この映画の、「ラストの8分間のスピーチ」は圧巻だった。

「思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。」
「思考の風がもたらすのは、善悪を判断する能力であり、美醜を見分ける力です。」
「考えることで人間は強くなるのです。」
「危機的な状況にあっても、考え抜くことで、破滅に至らぬようにするのです。」

言葉の力   ワイツゼッカー元ドイツ大統領を偲んで

1月31日、元ドイツ大統領ワイツゼッカー氏が死去した。(享年95歳)

本棚の奥から「言葉の力 ワイツゼッカー演説集」  永井晴彦 編訳  岩波現代文庫

を引っ張り出してきて、ゆっくり読み返してみた。

いくつもの有名な演説が収められているが、最も有名なのは、1985年5月8日、ドイツの敗戦40周年にあたって西ドイツの国会での、「荒れ野の40年」と呼ばれている演説である。

1985年と言えば、東西冷戦終結の4年前、まだ、ドイツが東ドイツと西ドイツに分かれていた時期である。

この演説には、埋もれさてしまうにはもったいない珠玉の言葉がちりばめられていた。

混迷する現代の社会に、道筋を示してくれるようなフレーズもあった。

以下、ワイツゼッカーの演説および彼の考え方を紹介したいと思う。



まず、ドイツにおける「大統領」について少々、説明しておきたい。

現在のドイツの首相が女性のメルケルさんなのは知っていても、現在のドイツ大統領がだれかを知っている人は少ないだろう。(実は、私も知らなくてさっきネットで調べた。ヨアヒム=ガウクという人だった。)

ドイツのおいては、実際の政治を担っているのは首相で、大統領は、象徴的な存在である。
皮肉っぽく、「演説だけが仕事」、と言われることがある。

〔これは、第2次世界大戦以前のドイツ(ヴァイマル共和国と呼ばれていた。)が、大統領に大きな権限を持たせたことで混乱が生じたことへの反省からである。
(ヒンデンブルク大統領は少数派内閣を短期に何度も変えた後、結局、ヒトラーを首相に任命した。)〕

こういう経緯があっての、現在のドイツの大統領の存在がある。
そんな立場で存在意義があるのか?と問われれば、大いにある、と答えることができる。

ワイツゼッカーの「荒れ野の40年」は、ドイツの人々が、世界の中で、どのような立場で、どのような考え方で生きていったらいいのかという道筋を示してくれた演説だと思う



第2次世界大戦を引き起こした国、ヒトラーという最悪の人物を生み出してしまった国ドイツ。

ドイツの場合、戦争の罪をヒトラー一人に負わせてしまうことができる。
ヒトラーは悪である。彼が権力を持っていた12年間は異常な年月だった。
善良なドイツの人々は何もできなかった。
・・というような言い方はできると思う。

しかし、ワイツゼッカーは言う。

「ユダヤ人という人種をことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。・・・・。
この犯罪に手を下したのは少数です。公の目には触れないようになっていました。
(しかし。)目を閉ざさず、耳を塞がずにいた人々、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。・・・犯罪そのものに加え、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのが現実であります。・・・。」
  
過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしないものは、またそうした危険に陥りやすいのです。」



心に刻む」 ・・・深い言葉だと思う。

私たち、日本人は中国や韓国から、戦争の責任の追及や謝罪を求められると、もう、いい加減にしてくれと思う。
戦後に生まれた私たちに責任はない、と言いたくなる。

だが、だからこそ、ワイツゼッカー―の言葉を、もう一度、かみしめて考えたいと思う。

「歴史の真実を直視せよ。そうすることが心からの和解に通じていく。
若い世代にかつての出来事に責任はなくても、そこから生じてくることには責任がある。」

まさに、そうなのだと思う。
戦後に生まれた私たちには、戦争の責任はないけれど、過去に、日本が他国に対してどのような行為に及んだのかは心に刻んでおかなければならない。

こうしたことを話題にすると、自虐的歴史観だ、自国の歴史に誇りを持てる歴史教育をしろ・・ 云々。ということになりやすい。
論争をする気はない。
中国・韓国をはじめとする周辺諸国とのより良い関係を築いていきたいと思うのだ。




戦後70年の今年、8月の終戦記念日に合わせて、安倍首相は戦後70年談話をするという。

どんな言葉で語るのだろうか。

口先の「謝罪」が不信の解消には役立たない、というワイツゼッカーの言葉は肝に銘じておいてほしい。

過ぎ去った過去はどうにもならない。でも、これからのことは、私たちの世代に責任がある。
プロフィール

萩谷功枝

Author:萩谷功枝
世界史教師をしています。

映画や本の紹介、最新のニュースから感じたこと、など自分の日常を通して、世界史のことを考えていけたらと思います。

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