薔薇の名前

『薔薇の名前』
1986年のフランス・イタリア・西ドイツの合作映画。
ウンベルト=エーコが1980年に発表した小説を映画化したもの。

監督:ジャン=ジャック=アノ―
出演:ショーン=コネリー(ウィリアム)、クリスチャン=スレーター(アドソ)


中世の北イタリアの修道院を舞台とした、そこで起こる殺人事件をめぐるストーリーで、主人公のウィリアムが事件をめぐる謎を次々に解き明かしていく。
シャーロック=ホームズ並みの推理力が見ていて面白く、また、中世キリスト教社会の、暗く重々しい感じ、(もっと言ってしまえば、おどろおどろしい感じ)が映像でよく表現されていて、見ていてわくわくしてくる。

世界史教師をしている私としては、以前から「見ておかねば」と思っていた作品で、ようやくwowow で放映されたものを録画してみることができ、さらに図書館から原作本を借りてきて細部を確認できたので、この作品を堪能できたと満足しているところである。

この作品は、少々、難解で、当時のキリスト教社会の事情を知っていないと、ストーリーの展開が理解しにくいので、説明したい。

まず、中世とはキリスト教中心の価値観に支配されていた時代で、「哲学は神学の婢(はしため)」であったということ。
(つまり、哲学より神学の方が偉いのです。)
ストーリーの中で展開する連続殺人事件の動機は、禁書とされていたアリストテレス哲学の本を読んだものの口封じのためだった。
(ネタバレすみません。でも、背景を把握していた方が理解しやすいです。)

修道院のホルヘ老師が保管し、その内容が知られるのを恐れた本とは、アリストテレスの「詩学」第二部
(実際に、悲劇について書かれた第一部は現存しているが、喜劇について書かれた第二部は、現存していない。もしかすると、ほんとに14世紀ころまでその本は実在していたのだが、この映画のストーリーのように、ホルヘ老師のような人が、自らの命とともにその本をこの世から無きものにしてしまったのかもしれないと思う。)

中世のキリスト教の社会が、いかに権威というもの上にのっかり、それを脅かすものを恐れていたのかが、ホルヘ老師の言葉からうかがえる。
ウィリアム:「なぜ それほどまでに笑いを警戒する?」
ホルヘ老師:「笑いは恐れをなくす。恐れなくしては、信仰は成り立たぬ。 悪魔への恐れなくば、神はもはや必要とされぬ。」
ウィリアム:「書物を隠したところで、笑いはなくならん。」
ホルヘ老師:「お前の言うとおり、庶民の中の笑いは生き続けるだろう。 しかし、この本の存在が知れることは、笑いを公式に認めることになる。どんな笑いも、神を笑うことが許されれば、世界は再びカオスを迎える。この本を人目に連れさすわけにはいかぬ。墓場へ運ぶまでは・・・。」

人々が神を信仰するのは、恐れから守ってくれるからであり、これは逆に言えば、恐れがなければ神は必要とされない、教会の権威を守るためには恐れが必要、ということになる。
そして、恐れを吹き飛ばしてしまう「笑い」は、教会にとっては邪魔な存在なのだ。
こうなってくると、信仰とは何のためにあるのだろうと思ってしまう。
人々を救うための信仰であるはずなのに、信仰の上に成立している教会は、その存続のために「恐れ」を生むための人々の不幸や苦悩を必要とするという矛盾。


それにしてもアリストテレスの『詩学』第二部にはどんなことが書かれていたのだろう。
現存していないとなると余計知りたくなる。
映画のなかでウィリアムがこの本の一部を読み上げる場面がある。
俗悪な人間の滑稽さの中に真実を見出す。それが喜劇である。彼らの欠点もよしとせよ。」

現存していないのだから、これはエーコの創作なのだろうけれど、うまいと思う。
喜劇とは下劣な笑いではなく、高尚な芸術なのだ。
人間には、嫌なことも笑い飛ばしてしまうたくましさが必要なのだ。

中世の修道院では笑うことも禁じられていた。
ホルヘ老師が笑った者をとがめる場面があった。
もったいない話だ。
「笑い」には医学的な見地からも様々な効用がある。
良好な人間関係を構築する上でも「笑顔」に勝るものはない。
苦しい局面を乗り切るときも、支えてくれるのは周りの人の「笑顔」だ。
森山直太朗の「さくら」の「♪ど~んなに、くるし~い時も、君は笑っているから~♪」という歌詞のように。

やはり、中世というのは暗く、重苦しく、閉鎖的で停滞していた時代なのだと思う。
それは、ホルヘ老師の「知識」についての講話からもうかがえる。
「(我々のつとめは)知識の保存だ。あくまでも保存だ。探究ではない。知識に進歩はない。
それは昔からの単なる反復。崇高な繰り返しに過ぎない。
今こそ神をたたえよう。」

「疑問は信仰の敵」とも言っていた。
すべては疑問から始まるはずなのだが。

中世では、笑うことを禁じ、疑問を持つことを禁じ、こうやって、権威ある教会勢力が自分たちの既得権を維持しようと必死だったのだろう。


中世に比べて、21世紀の現在が理想の世の中になっているかといえば、もちろん、まるでそうではないが、さすがに、人類だって進歩しているわけだから、「笑い」についてのとらえ方も進歩した。
その部分のありがたみを意識して、今日も「笑い」を大切にしながら過ごそうと思った。




追記:
(この作品のメインテーマは上記のように、禁書とされたアリストテレスの『詩学』第二部の、たった一冊だけ残されていたとされる写本をめぐる事件なのですが、これ以外にも、背景となる状況に興味深い様々な要素が含まれているので、関連事項について述べたいと思うのですが、ほとんど世界史の授業のような話なので、面倒くさい方はスルーしてください。)

まず、この作品の設定が1327年とされているということ。
絶妙な時期設定であると思う。
教皇権の絶頂は、13世紀初めのインノケンティウス3世時代。そして、十字軍の失敗とともに教皇権が没落していき、14世紀の初頭、教皇はフランス王との争いに負け、教皇庁は南フランスのアビニョンに移転され、フランス王の支配下に置かれた。
1327年というと、まさにこの時期で、教皇はアビニョンにいた時期となる。
とうに教会の権威は失墜してきているのだが、まだかろうじて保ってはいる。
ウィクリフやフスといった教会を批判する勢力が登場するのは、もう少し後のこととなる。さらに、1339年から英仏間で百年戦争に突入し、さらに1340年代にペストの大流行という事態になるのだが、それもこの後のこと。
1327年という年代は、教皇権は衰退期に入っているのだが、まだ、完全に失墜していないという絶妙な時期なのだ。中世というだけで時期をぼかしてもいいのに、あえて年代を明示するところが、この作者のうまさなのかもしれない。

また、フランチェスコ会と教皇庁との対立もこの作品の見どころの一つだ。
フランチェスコ会は托鉢修道会のひとつで、清貧を旨としていて、財産所有を否定している。インノケンティウス3世が公式に認可したことで異端とはならず、独自の活動ができる組織ではあるが、教皇にしてみれば、フランチェスコ会はけむったい存在。なぜなら、この時期の教皇側の聖職者は、貧しい領民の生活の犠牲の上に乗っかって、自分たちが贅沢な食事をすることなど当たり前と思っている人たちばかりだったから。

異端審問官による裁判というのも、権威の保持のためには、権力側の言い分がまかり通る世界。
ウィリアムもかつて、聖書に矛盾するギリシア語の本を翻訳した男をかばいきれず、男は処刑、自分は生き残るという、苦い過去を持つ。
裁判で正しいことを貫けないという悔しさはいかばかりかと思った。

そして、今回の一連の事件をめぐっても、ウィリアムの宿敵、異端審問官のベルナール=ギーがやってきて、裁判が展開される。
補佐官に指名されたウィリアムがどういう立場で意見を述べるかも、見どころの一つといっていいだろう。

約30年も前の作品ですが、おもしろかったです。★★★★★



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萩谷功枝

Author:萩谷功枝
世界史教師をしています。

映画や本の紹介、最新のニュースから感じたこと、など自分の日常を通して、世界史のことを考えていけたらと思います。

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