『ブラック・クランズマン』

ブラッククランズマン

渡邊裕子さんの
「スパイク・リーはなぜ席を立ったのか。/アメリカの黒人差別を理解するうえで見るべき映画」※という記事を参考に映画を見続けて、ようやくスパイク・リーの作品までたどり着いた。
https://www.businessinsider.jp/amp/post-214663

『ドゥ・ザ・ライトシング』、『ザ・ファイブ・ブラッズ』『ブラック・クランズマン』を立て続けに見たのだが、全部面白かった。
設定やストーリーの展開が面白く、エンタメ調で作っているので、飽きることなく、何が起こるのだろう、どうなるのだろうと思いながら見入ってしまった。
そして、当然の流れで、見終わった後、差別について考えさせられた。

『ドゥ・ザ・ライトシング』
ニューヨークのブルックリンの低所得者層、特に黒人が多く住む地区が舞台。
うだるように暑い夏の日。そこに住む人は、経済的にも余裕はなく、だるくて何にもやる気が起きないし、ちょっとしたことでイライラもするし・・・。
イタリア系移民の経営するピザ屋と客のトラブルからけんか騒ぎとなり、警察が出動。
警官は白人と黒人が殴り合っていたら、有無を言わさず黒人のほうを取り押さえるのだな。
そして身柄の確保だけで十分なはずなのに、エスカレートして、今、まさに問題となっている“警官の黒人への暴力”としか呼びようがない事態にまで発展してしまう。

何故ここまでにやりすぎてしまうのだろう?

『ザ・ファイブ・ブラッズ』
2020年のアメリカ映画。Netflixで配信。
ベトナム戦争からのアメリカの撤退から約40年後の2014年。黒人のベトナム帰還兵4人とその息子1人が、埋められた金塊を回収しようと、再びベトナムを訪れるというストーリー。
登場人物それぞれに事情があり、過去に負った心の傷がある。金が絡むと、仲間割れも起こる。
ストーリーの展開の予想がつかず、面白かった。

ストーリーとは少し離れてしまうけれど、この作品を見て、調べこと。
ベトナム戦争に参戦した黒人の割合は、合衆国の全人口に占める黒人の割合よりも、米軍における黒人の割合のほうがずっと多い。
しかも、ベトナム帰還兵のうち精神疾患にかかる割合は、黒人は白人の2~3倍ほど高いという。
これは、黒人の兵士が戦闘の前線に立たされ、白人兵士よりも,いっそう凄惨な戦争体験をしたためと言われている。


『ブラック・クランズマン』
冒頭の字幕に「リアルな話がベース」と出てくる。つまり実話をもとにしたストーリー。
こんな話が本当にあったのだろうか?と信じられないようなストーリー。

コロラドスプリングス初の黒人警官ロンは、電話でKKKの入会を申し込む。
KKKのリーダーのデュークはロンのしゃべる英語に黒人の訛りがないことから、まさか電話の相手が黒人であるなどと疑うこともせず、入会を許可する。
さらに相棒の警官でユダヤ系白人のフリックが,コロラドスプリングスのKKK支部の会合に参加して潜入捜査を行う。

潜入捜査を題材にした作品は、『インファナル・アフェア』(リメイク作品:アメリカ版は『ディパーテッド』、日本版は『ダブルフェイス』)などがあるが、潜入捜査だということがばれるのではないかと、みていてハラハラする。しかも潜入先の組織はマフィアだったり、日本の反社会的勢力(いわゆる暴力団)だったり、ばれたら有無を言わさずリンチにあい、その後で殺されるのだろうなと想像してしまうような組織だから本当に怖い。
今回の『ブラック・クランズマン』では、フリックが潜入したのは、狂気ともいうべき白人至上主義の集団KKK。

さて、この潜入捜査がうまくいくのかどうかも含めて、書きすぎるとネタバレになってしまうので、ストーリーについてはここまでにして、私がこの作品を見て感じたこと、考えたことを書きたい。


この作品を通して強く感じるのが、KKKという組織の異常さ
白いとんがり帽の覆面をかぶり白装束で身を固めたメンバーが十字架に火をつける儀式を行って結束を固める。
目的は黒人やユダヤ人の排撃。暴力を用いて弱者を排除しようとするだけでなく、殺人をしてまで、弱者を抹殺しようとしている。しかもそれを「よい行為」だとする価値観を持っている。
こういう組織をカルト教団と呼ぶのだな。

KKKは1920年代に会員数500万人という大きな組織になったことがある。その背景にあったのは、『國民の創生』というサイレント映画だ。
『ブラック・クランズマン』冒頭部分にも、『國民の創生』の画像を背景にボーリガード博士なる人物が差別満載のスピーチをしている場面がある。
(私はこの部分を実在の人物が行った過去のスピーチ映像だと思ってみていたのだが、違った。テレビ番組でドナルド・トランプ役を演じて評判となったアレック・ボールドウィンという俳優が演じたものだった。このあたり、スパイク・リー監督は皮肉たっぷりな要素をいろいろ仕込んでいるのだけれど、解説を読まないと、気づかないこと、わからないことは、まだまだ多い。)

このボーリガード博士なる人物が言っていることがとんでもない。
「白人の子供たちは、あのブラウン判決以来、劣等人種との学習を強いられています。
アメリカは雑種国に堕ちんとしている。有色人種は異人種混交によってアメリカを侵略しようとしている悪党なのです。」

ブラウン判決とは。

まずは、1892年のプレッシー判決から。
人種隔離を認める州法の違法性を問うため、黒人男性があえて白人席に座って逮捕された。この裁判は最高裁まで持ち込まれたが、そこでの判決は、
「隔離を認める州法は、一方の人種を劣等とみなすものではない。従って憲法修正第14条に反するものではない。」
 
それから約50年後。
 自宅のそばにある学校が白人専用であるために、娘をバスで遠くの黒人専用学校へと行かせなければならないのは不当である、と訴えた「ブラウン対トピーカ市教育委員会事件」に対する最高裁長官ウォレンの出した判決は。
「法律は”この日この時“と無縁であってはならない。」
「我々は、公共教育の場における“分離すれども平等”の原則は成立しないものと結論する。教育施設を分離させる別学自体が本質的に不平等だからである。」


アメリカは憲法修正第14条および、このブラウン判決により、差別を否定する法の規定は明確になっているということだ。
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『ブラック・クランズマン』のラストでは、ヴァージニア州シャーロッツビルに白人至上主義者が集結し、その集会に抗議する人々に車が突っ込んだという事件の実際の映像が映し出される。
人々の群れに車が突っ込む。あまりにもひどい。

作品は映像で終わっているのだが、ネットで調べたら、これに対するヴァージニア州知事テリー・マコーリフのスピーチが載っていたので、引用しておきたい。

 「今日シャーロッツビルに集まった、すべての白人至上主義者とネオナチに伝えたいことがある。私たちのメッセージはごく単純なものだ。帰れ。君たちはこの偉大な州に必要ない。恥を知れ。君たちは愛国者を気取っているようだが、愛国者なんかではまったくない。(中略)君たちは今日人々を傷つけるためにここに集まり、そして実際に傷つけた。私のメッセージは明確だ。私たちは君たちよりも強い。君たちが来たことで、私たちの州はもっと強くなった。君たちが成功することなどない。ここに君たちのいる場所はない。アメリカに君たちの場所などないのだ。(中略)私たちの多様性、さまざまな出自をもった移民が、アメリカを独自の国にしている。私たちは、誰かがここに来て多様性を破壊することを許さない。だからお願いだ、帰ってくれ。そして二度と戻ってくるな。憎しみも偏見も、ここにはいらない。」

明確な声明だと思う。

この州知事のように差別に反対する明らかな態度をとっている指導者はきちんと存在している。
しかし、肝心の合衆国で最高の立場にいるトランプ大統領は、「双方に悪い人がいた。」というような、歯切れの悪い声明。
暴動が起きたときに、その混乱状態は鎮静化しなければならないけれど、その混乱が起こった根本の原因から考え直さないと問題は解決しないと思う。


いつものことながら、作品そのものの話からそれてはしまったけれど、「差別」は単純な話ではなく、それが作られてしまった歴史的な背景や、社会制度的な仕組があるので、これからも、それを調べ、考えていきたいと思う。


『ブラック・クランズマン』はAmazonプライムとU-Nextで、『ザ・ファイブ・ブラッズ』はNetflixで、『ドゥ・ザ・ライトシング』はAmazonプライムで追加料金なしで見られます。

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『ヘルプ~心がつなぐストーリー~』

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2011年のアメリカのドラマ映画。
舞台は1960年代のミシシッピ州ジャクソン。
「ヘルプ」とは、家政婦・メイドのこと。

出演
エマ・ストーン(スキーター)
ヴィオラ・ディヴィス(黒人メイドのエイビリーン)
オクタヴィア・スペンサー(黒人メイドのミニー)
ブライス・ダラス・ハワード(ミニーの雇用主のヒリー)

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このところ、ずっと黒人差別についての映画を見続けている。
ネットの記事にリストが上がっていたり、友人が教えてくれたり。
見ておきたい映画はまだまだ、たくさんある。
そんな中で、友人が教えてくれたこの作品を見てみた。

1960年当時の南部の富裕層の家庭の白人の女主人と黒人メイドの関係がよくわかる作品で、出てくる女優陣がみんな魅力的だった。
このあと『ラ・ラ・ランド』(2016)でアカデミー主演女優賞を獲得するエマ・ストーン。
この作品で助演女優賞を獲得したオクタヴィア・スペンサーは、このあとの『ドリーム』などの作品でも大活躍だ。
そして、重要なのが、この作品の中で憎まれ役のヒリーを演じているブライス・ダラス・ハワード。黒人メイドに対して常に偉そうにふるまい、差別的でわがまま。見ている側を、黒人メイドのミニーを応援したくなるような気持にさせてくれる。憎まれ役を一手に引き受けているのだが、どこか間が抜けていて愛嬌があり、味のある女優だと思った。

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ストーリーは、スキーターが、黒人メイドたちから、女主人たちからのひどい扱いを受けた経験の話を取材して、本にまとめて世に知らしめようとすることを軸に展開する。
黒人に対する差別感情が当たり前で、黒人メイドをひどい待遇で扱うアメリカ南部の社会の中にあって、スキーターはそれを批判的な目で見、黒人の立場に寄り添おうとする。

黒人メイドたちもやられるままではなく、ヒリーも、ミニーの反撃にあって痛い目に合う。
ラストでちょっとエイビリーンに同情するけれど、彼女ならこの先も強く生きていくことができるだろう、と思える展開だ。
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見終わった後、スカッとした。面白かった。
そんな気持ちになれるようにこの映画はできている。

この作品は多くの観客を集め、興行的にも成功した。
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しかし。
この作品は典型的な「白人の救世主」映画とされる。
「白人の救世主映画」とは、白人が非白人の人々を窮地から救う、というおきまりのパターンの映画を、批判を込めて表現した言葉だ。

「白人の救世主映画」は成功する。

なぜ成功し、なぜ批判されるのか?

それは白人目線で作られているからだ。
人は「差別はいけないことだ」という感情を持っているし、世の中から差別をなくしたいと思っている。
だから、差別に抵抗して行動する人を見ると、ヒーローを見ている気分になれる。
『スーパーマン』や『スパイダーマン』を見るのと同じような脳の刺激を受けるのだと思う。

「白人の救世主」は、差別が当たり前の社会の中で、嫌がらせや、身の危険にまで及ぶ周囲の対応にも屈せず、正しいことを貫こうとする。
そういう姿を見ているのは、気分がいい。
差別を受けている黒人を助けようとする良心を持った白人を見て、自分たち白人も捨てたもんじゃない、と安心させてもらえる。

つまり、「白人の救世主」という批判を込めた言葉は、そういう人物を主人公にしてヒットを狙う製作者側に対するものであり、そこで満足してしまう見る側の受け止め方に対するものなのだ。

(「白人の救世主」の存在自体は、多数派が動かしている世の中の流れに逆らって、マイノリティの立場に立っているのだから、尊敬に値すると思う。)

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映画には、制作された時代が反映する。
(描かれている時代ではなく)、制作された作品そのものが映画の歴史を作っている。
かつての「西部劇」では、インディアンは白人の馬車を襲撃する悪者だった。
白人が全速力で疾走する駅馬車から銃でインディアンを倒し、駅馬車が無事にステーションまで到着するとほっと胸をなでおろした。
インディアンは白人と敵対する「悪」だった。

それが『ダンス・ウィズ・ウルブズ』で大きく変わった。
もともとアメリカ大陸に住んでいたインディアンの生活を脅かしたのは白人の側だという立場で作品が作られていた。
インディアンに寄り添い、最終的にインディアンと行動を共にする主人公の生き方に心を打たれる。
この作品も「白人の救世主」映画に分類される。
しかし、分類をすれば、「白人の救世主映画」に属してしまうけれど、この作品は、インディアン=敵=悪者という価値観から、一線を画した、映画史の中で大きな意味を持つ作品だ

「白人の救世主」の映画は、かつて一方的にインディアン=悪者と決めつけた西部劇と比較してみるなら、非白人と交流を持つ白人を描くようになったということで、西部劇時代からは一歩前進したといえる。

願望。
そういった意味で、映画が製作された時代を反映するのなら、そして歴史が「差別のない社会」をめざしているのだとしたら、いつか『かつて「白人の救世主」を描いた映画が作られた時代があった。』と、過去形で言えるような時代が来てほしいと思う。

『グリーン・ブック』

グリーンブック

2018年のアメリカ映画。分類は伝記コメディ。
出演
マハーシャラ・アリ
(黒人ピアニストのドン・ドクター・シャーリー)
ヴィゴ・モーテンセン
(イタリア系アメリカ人の用心棒・運転手 トニー・ヴァレロンガ)


日本での公開は2019年3月。
公開直後に夫と一緒に劇場で見た。
見終わった後、「よかった。」いう感想を夫と語りながら家路についた記憶がある。
(我が家は、劇場で映画を見るとしても別々のことが多いし、たまに一緒に見に行ったとしても、その作品がはずれだった時、「つっまんネェ、映画だったなあ。」というセリフを翌日の朝食ぐらいまで聞かされることになるのだが、この作品については、「いい映画を見た。」という感想を夫婦で共有できた。)

この映画については、おおむね好評であるのだが、一方で厳しい批評もある。
私はいい映画だと思った。それが見終わった後の、素直な感想である。
映画は見に行って、楽しく過ごせて、見終わった後にいい作品だと思えたなら、それでいいじゃないかということなのではあるが、やはり、どういう点が批判されてしまうのかということについて考えてみたくなる。

ブログに書きたいと思いつつ、今日まで書けずにいた作品なので、もう一度見直して考えてみたいと思った。

まずは、この映画についての概要から。

***********************

時期設定は1962年。(公民権法制定の2年前)
グリーン・ブックとは、南部を旅する黒人が泊まれる宿の情報を載せたガイドブック。

ドクター・シャーリーは黒人ピアニストとしての名声を築き上げ、カーネギー・ホ-ルの上階の高級な家具・調度に囲まれた部屋に住んでいた。
北部でのコンサート活動を続ければ、なんのトラブルもなく、高収入を得て、ピアニストとして、高い評価を得て暮らしていける。

そんな彼が、運転手&用心棒としてイタリア系のトニーを雇い、黒人差別の激しい南部へのコンサート・ツアーに出る。
特にディープサウスと呼ばれているアメリカ最南部の地域(ジョージア州、アラバマ州、ミシシッピ州など)での黒人差別は激しい。
作品の途中でも、ナット・キング・コールが初めて白人の前で歌う黒人として舞台に立った時、差別主義の白人たちによって舞台から引きずり降ろされてしまったというエピソードが語られていた。

そんな地域に敢えて行く。

ペンシルベニア州ピッツバーグ→オハイオ州→インディアナ州ハノーヴァー
このあたりはまだいい。用意されたピアノがひどいものでも、用心棒のトニーの一喝でスタンウェイを用意させることができる。
→アイオワ州シダーラピッズ→ケンタッキー州レイビル
このあたりから黒人に対する白人の態度があからさまに感じ悪くなる。
→ノースカロライナ州ローリー
ここでは、黒人は建物内にある白人専用トイレを使用することはできず、戸外の黒人用の粗末なトイレを使用しろと言われる。ドクター・シャーリーは30分かけてモーテルに戻るという選択をする。 
→ジョージア州メイコン→テネシー州メンフィス→アーカンソー州リトルロック→ルイジアナ州バトンルージュ→ミシシッピ州テューペロ→ミシシッピ州ジャクソン
このあとの夜間の移動で、土砂降りの雨の中、「黒人は夜の外出は禁止されている」という理由で(そういう州法があるということだ)、検問の警察官とのトラブルが発生し、「ニガー」という言葉を使った警官に腹を立てたトニーが警官を殴ってしまい収監されてしまう。
そして、最終公演はアラバマ州バーミンガムのクリスマスコンサート。
しかし、コンサート前の食事を黒人のドクター・シャーリーはトニー達スタッフと一緒に会場のレストランでとれないという対応を受け、ドクター・シャーリーはここでのコンサートを拒否して、帰路につく。

**
ドクター・シャーリーはなぜ、南部へのコンサート・ツアーに出たのだろうか?
彼は北部ならチヤホヤされ、3倍稼げた。
危険な目にあうこともなく、いやな思いをすることもなかった。
それなのに、なぜ?

途中、ドクター・シャーリーの悲痛な叫びがある。
私ははぐれ黒人だ。
白人でも黒人でもなく、男でもない私は何なのだ!


黒人という存在でありながら、「いい暮らしをしている奴」ということで、黒人社会からもはみ出している。
旅の途中、南部の農園で働く貧しい農夫たちの姿があった。
白人運転手のトニーが故障を修理している間、高級車の後部座席に座るドクター・シャーリーを見つめる農夫たちの視線は、奇異なものを見る目、というよりむしろ敵意をもったものだったように思う。
はぐれ黒人・・・。
その上、彼には秘密があった。トニーにも知られたくなかった秘密。
人種的な差別を受けているうえに、性的マイノリティーだったとしたら、ドクター・シャーリーは、自分の存在そのものに二重三重の苦しみを抱えていることになる。

ピアニストとしての名声、豪華な部屋、高級車、白人の使用人を持つ身分でありながら、
ドクター・シャーリーは自己のアイデンティティのあり方に苦しみ、自分が何者であるかがわからず、孤独だった。


それを克服するための旅が、このディープサウスへのコンサート・ツアーだったのだと、私は思う。

**

この作品は、2019年2月の第91回アカデミー賞で、作品賞と助演男優賞を獲得した。
しかし、受賞した作品に対する批判はつきものだ。
白人のトニーと黒人のドクター・シャーリーが人種の壁を乗り越えて理解を深めるという結末が、あたかも人種差別の問題を克服したかのように描かれていて安易だ、という批判があるようだ。
黒人への差別が今も引き続き起こっている現状を考えたとき、この作品のように美談に仕上げるな、ということなのだろう。
黒人差別を批判する作品であったのなら、そういう批判は当然だろう。
しかし、この作品は、それをテーマにした作品ではないと私は思った。
差別の中で生きる人間の生き様なのだと思う。
差別があるという理不尽な社会の中にあって、そのような理不尽さはなくしていかなければならないと考えるのは当然なのだが、理不尽さがなくならない限り、人はその理不尽さの中で生きていかなければならない。
そして、その理不尽な社会の中で、人はどのように心のバランスを保って生きていけばよいのかを問うているように思う。

人は理解しあえる相手がいるから生きていける。
知的なドクター・シャーリーと粗野なトニー。
あまりにも違う2人のキャラだったが、8週間にわたる車での移動の旅を通して、ぶつかり合いながらも、お互いの理解は次第に深まっていった。
そこかな。
見終わった後、さわやかな気分になれるのは。
トニーの家族や友人たちのイタリア系の人々のクリスマス・イブのホーム・パーティに、一見、異分子のドクター・シャーリーが現れたとき、このイタリア系の人たちはみんな、彼を温かく迎えてくれた。
孤独に苦しんでいたドクター・シャーリーが、ラストで笑った。

甘い、と言われようが、私はこのストーリーが好き。
人は理解しあい、愛し合って生きていく生き物なのだ。
時を共に過ごし、かかわりあいながら、生きていくのだ。

******

とは言うものの。
この作品が、ハッピーエンドで気分よく終わっているのは、製作スタッフがすべて白人というところがあるのかもしれない、とは思ってしまう。
黒人差別を背景にした作品を描くとき、黒人監督ならば、ハッピーエンドにはできないかもしれない。
『フルートベール駅で』のライアン・クーグラー、あるいは一見コメディ調の『ドゥザライトシング』のスパイク・リーは黒人監督であり、これらの作品では、誤認や過度な取り締まりにより、警官による黒人の殺害が描かれている。
亡くなった黒人の命のことを考えると、見終わった後になんともやるせない気分になる。
(『デトロイト』のキャスリン・ビグローは白人女性だが。)

こうなってくると、監督や制作スタッフが白人なのか黒人なのかをいちいち確認したくなるが、それは逆に先入観や偏見を持つことにつながってしまう。
大事なのは、作られた作品がどのようなものであり、その作品を見た側がどう感じ、何を考えるかだと思う。

『グローリー/明日への行進』

グローリー

2014年のアメリカの歴史ドラマ
1965年のセルマ大行進を描いた作品。

キング牧師は、公民権運動の指導者として私たち日本人にもよく知られた存在だ。
1964年の公民権法成立に大きく貢献し、同年、ノーベル平和賞を受賞した。
1963年のワシントン大行進における「I have a dream.」のスピーチはあまりにも有名だ。

この作品は、その翌年の1965年のセルマ大行進を描いたものである。

セルマ大行進とは、どのような背景のもとで、何を求めて行われたものなのか、この作品を見るとよくわかる。
1965年ということは、公民権法成立後のことである。
公民権法が成立したからといって、人々の差別感情はもちろん、法制度上でさえ黒人差別はなくなっていなかった。

差別を続けられる巧みな仕組みが、南部各州に残っていた。
すでに憲法修正第15条により、投票権を付与するときに、市民の人種、肌の色により差別してはいけないことになっているはずである。
しかし、南部州には、投票権獲得のためには有権者登録をしなければならないという法律があった。
登録受理には、識字テストや教養テスト、投票税などの厳しい条件をクリアしなければならなかった

この作品でも冒頭の部分にその様子が描かれている。
登録に来た黒人女性に対して、役人が、「憲法の前文を言え。」と問う。
女性は、きちんと勉強をしてきているから落ち着いて答える。
「アラバマ州の判事の数は?」 「67人」 ここまでは何とか対応する。
「では、その名前を言え。」  「・・・・・。」
いくら何でもこれは無理でしょう。判事の名前なんか言えるわけがない。
(今の日本人で、最高裁判所裁判官15人を全部言える人がどれだけいますか?)

理不尽なテストの結果は、「却下」。
これでは何度申請しても通るわけがない。

しかも、登録を申請したものの名前が新聞に掲載されるので、KKKの襲撃の対象になる、申請したものは解雇される、etc.
こんなことが横行していたら、申請すらできなくなる。

黒人たちの抵抗に、ひどい暴力で対応する警察や白人至上主義者。
しかし、暴力による殺人が起こったとしても、殺人を犯した白人はだれ一人有罪にならない。
白人の有権者が選ぶ公務員に守られているから。
たとえ裁判になっても全員白人の陪審員が無罪を評決するから。
なぜ全員が白人か?
陪審員になるには有権者登録が必要だから。

こんな社会の仕組みがあったら、世の中から差別をなくすことなど、できるわけがない。

キング牧師たちは、公正な投票の権利を求めて、抗議活動を行う。

キング牧師のやり方は「非暴力」である。

暴力に対して暴力で対抗しても、さらなる激しい暴力を生むだけだ。
しかし、非暴力という戦術は、やられ放題になってしまう危険がある。
丸腰の黒人に対して、警官が警棒で殴りつけてくるのだから、当然、黒人側に犠牲が出る。

それでも、キング牧師は「非暴力」を貫き、黒人たちを指導する。
「非暴力」の抵抗を大きなうねりにしなくてはならない。

セルマ大行進の前に、3月7日の行進があった。この行進はアラバマ州警察のひどい暴力をもって阻止されてしまう。
この「血の日曜日事件」と呼ばれる弾圧は、テレビで報道され、世界中の新聞にも掲載された。
南部アラバマ州の警察や民兵の暴力に対する批判が高まる。
世論を味方につける。
この戦法しかない。

再度試みられた9日の行進は、キング牧師の直感で引き返すことになってしまい、その判断は、集まってくれた人への裏切りと考える人もいて、運動内部での動揺も起こる。
(この部分はいろいろな解釈があると思うが、私は、キング牧師ほどの指導者でも、迷いや不安は起こるということなのだと思った。)

様々な人々の思いを込めて、3月21~25日のセルマ大行進へ。
アラバマ州セルマから州都モンゴメリーまでの80㎞にわたる大行進の参加者は2万5000人にも膨れ上がった。
その中の2割は差別に反対する白人であった。

5か月後、投票法が成立し、識字試験は廃止された

***************
大筋とは少し離れますが。

キング牧師とジョンソン大統領とのやり取り。
キング牧師とマルコムXとの確執。
キング牧師と妻の関係。
キング牧師の周りには活動を共にするメンバーだけでなく、そこには様々な人間関係があるわけで、見どころは満載でした。


ジョンソン大統領については、この作品ではおおむね好感をもって見ることができた。
マルコムXのような過激な人物よりも、キング牧師のような平和的な活動をする人物が指導者であったほうがやりやすい、という打算や、黒人に味方することで南部の白人の支持を失うことを恐れるという選挙を意識した部分も描かれている。
まあ、政治家とはそんなものでしょう。
何より大事なのは、キング牧師との話し合いを通じて、キング牧師の訴えを受け入れるという決断をしたことだ。
のちにベトナム戦争に本格介入した大統領として名前を残してしまうことになるけれど、セルマ大行進の安全を保障し、投票権法の成立に署名した大統領であるのだ。

途中、キング牧師を崩す策略として、FBI長官のフーヴァーが、キング牧師の奥さんに不倫の証拠テープを送りつけて、夫婦関係に亀裂を入れようとすることもあった。
盗聴テープ自体が卑劣。しかも、そのテープの内容が捏造であったのなら・・。
真偽はわからないけれど、卑怯なやり口。
様々な方向からの妨害があったのだな。

キング牧師は同時代のマルコムXとは、タッグを組まなかった。
黒人公民権運動活動家マルコムXは、非暴力のキング牧師とは異なる過激なやり方で闘争をしていたが、この時期、マルコムXは所属していたNOI(ナーション・オブ・イスラム)を脱退していて、キング牧師への支援を申し出ている。
しかし、キング牧師は拒絶する。
キング牧師はマルコムXを信用していなかったようだ。
キング牧師の指導は徹底した「非暴力」であり、相手の攻撃に反撃してしまったら、非暴力の戦術が水の泡になってしまうからなのかもしれない。

様々な登場人物が描かれていた。
活動に加わり、その後、黒人の差別撤廃のために長く政治の舞台で活躍した人もいる。
活動のさなかに、ひどい警察の暴力に命を落とした若者もいる。
キング牧師も、1968年に暗殺された。


多くの犠牲があり、それでもいまだに差別はなくなっていない。

『アラバマ物語』

アラバマ物語
1962年のアメリカ映画。
半世紀以上も昔の白黒作品。
出演:
グレゴリー・ペック(アティカス・フィンチ)
1930年代のアメリカ南部アラバマ州の田舎町に暮らす家族のお話。

これも、「アメリカの黒人差別を理解するうえで見るべき映画」のリストに挙げられていた。
そして、なんと、著作権標記欠落により、現在パブリックドメイン(知的財産権が発生していない状態)となっているため、Amazonプライムで無料で見ることができた。
ありがたい。

1962年末に公開されると大ヒットとなった作品で、1930年当時のアメリカ南部の多くの人々の差別感情がどんなものであったのかを知ることができる。
大ヒットとなった背景には、公開当時がまさに公民権運動が盛り上がっていた時期であったため、アラバマ州の田舎町という差別感情がはなはだしい地域のなかで、「黒人の弁護」を請け負った弁護士アティカス・フィンチの姿はヒーローとして支持されたのだろう。

“ヒーロー”という言葉を使ったのは、2003年度の『アメリカ映画のヒーローと悪役ベスト10』でヒーロー部門堂々の1位がアティカス・フィンチだったという情報を知ったのからである。
この作品は、地味な法廷ものであり、妻を亡くして、子供2人を育てる父親像を描いた家族愛ものである。
悪をバッタバッタとなぎ倒すような派手なアクション映画ではないこの作品の主人公アティカス・フィンチが1位に選ばれたということは、演じたグレゴリー・ペックの素敵さによるところが大きいと思うが、正しいことを貫こうとする“正義感”が、人々の持つ価値観のなかで重要になってきたからではないかと思う。

作品の中での、フィンチが弁護を引き受けた「黒人青年による白人女性強姦事件」の裁判はひどいものだった。
「13th」という映画の中に、「アメリカで司法機関が黒人の味方だったことは一瞬たりともなかった。」という言葉があったけれど、まさにそうだなと思った。
フィンチがどんなに、被告人の黒人青年の無実を証明しようとしても、(例えば、相手女性の殴られた跡からは、暴行した相手が左利きと推測されるが、被告人の黒人は左腕が不自由だったこと、など。)陪審員が全員白人であったなら、有罪の評決しか下されないのは当たり前のことだ。
もしかしたら、黒人青年側に全く非がない、と思った陪審員もいたかもしれない。しかし、被告人が黒人だったなら、その場にいたというだけで、事件にかかわってしまったというだけで有罪にされてしまうということだ。
この時代の裁判というのは、無実の黒人を救済する可能性などなく、黒人を犯罪者として監獄に送り込むための儀式として行われているだけだったのだと思った。

この作品は、フィンチの娘のスカウトが過去を回想するという形式で描かれている。
スカウトにとって、少女時代を過ごしたアラバマの田舎町生活は、仲良しの兄のジェムや友達のディルたちと走り回って遊んだ楽しい思い出に満ちているだろう。
そんな日々のなかで、父親が請け負った裁判の様子は、彼女の眼にはどのように映っただろうか?
彼女にとって、自分の父親がとった態度は、誇れるものとして鮮明な記憶として残っただろう。
同時に、大人たちの反応を通して、大人社会の理不尽さを感じ取った彼女は、様々ことを考えながら、成長したはずだ。


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ところで。
アメリカの州の位置が結構、うろ覚えになっていたので、あらためて地図帳で確認してみた。
アメリカ南部は、ジョージア、アラバマ、ミシシッピと並んでいる。
それぞれ、ジムクロウ法と総称される人種差別の内容を含む州法を持っていた州で、特に黒人差別が激しかったところだ。
アラバマ州のモンゴメリーでは公民権法が盛り上がるきっかけとなったバス・ボイコット事件が起こっている。

歴史的な背景がある。
アメリカ南部はかつて奴隷制を認める奴隷州だった。
綿花栽培のプランテーションでは、炎天下での綿花の摘み取りという過酷な労働を、黒人奴隷に強いた。
南部の産業構造が黒人奴隷の労働力を必要としていた。
奴隷制が廃止されても、黒人差別は続いた。

産業構造、歴史的な背景。
個人的な偏見ならば、その人一代が終わればなくなる。
しかし、長い時間をかけて、社会全体が作り上げてしまった偏見は容易に消えない。

黒人に対する差別的な感情をもち、黒人に対して差別的な態度で接してきた大人のもとで育った子供は、それが当然のことと思って、そういう価値観を持った大人になる。

だから、そうではない価値観、差別はいけないことなのだという価値観を持った子供たちを育てればよいのだ。
BLM運動の盛り上がりは、それに参加している若い世代たちが中心になって、社会を変えていってくれると思う。
白人至上主義のオッサンの意識を変えていくというのは、容易なことではないけれど。
プロフィール

萩谷功枝

Author:萩谷功枝
世界史教師をしています。

映画や本の紹介、最新のニュースから感じたこと、など自分の日常を通して、世界史のことを考えていけたらと思います。

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