『ルース・エドガー』

『ルース・エドガー』
ルース・エドガー

2019年のアメリカ映画。
出演
ケルヴィン・ハリソン・Jr (ルース)
オクタヴィア・スペンサー (ハリエット・ウィルソン、世界史教師)
ナオミ・ワッツ (エイミー、ルースの養母)
ティム・ロス (ピーター、 ルースの養父)

面白い映画を教えてくれる情報源をいくつか持っているのだが、その一人Aくんがこの作品をあげてくれた。この人が「よかった。」という作品は私も「よかった」と思えるものが多いので、その信頼のもとに、Amazonプライムで見てみた。

タイトル以外の情報一切なしで見始めたが、いきなり見ても、登場人物の設定がわかりやすく、すぐに入っていけた。
そして。見終わった後、いろいろなことを考えさせられた。
こういう作品を秀作というのだろうな、と思った。

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以下ネタバレです。

主人公のルースは黒人の高校生。非常に優秀で、スピーチのうまさは抜群。
友人も多く、リーダー格である。
彼の家族は白人の養母エイミー(ナオミ・ワッツ)と、養父ピーター(ティム・ロス)。
深い愛情をルースに注いでいる。

この人物設定でいくと、アフリカのエリトリアという貧しい国から、アメリカ人家庭に引き取られた少年が、養父母の深い愛情の下で、優秀な人物に成長していく話かなと思ってしまう。

しかし、そんな単純な話ではない。

この年頃の少年の心は実に繊細で複雑だ。
ことに、周りの大人たちによる価値観の押し付けには猛烈に反発する。
実子でさえ、よい親子関係を築いていくのが難しいのに、血のつながりのない関係というのはさらに難しいだろうと思う。
まして、ルースはエリトリアの少年兵だった。

ルースの過去がいかに悲惨であったのかということは、作品では一切描いていない。
ルースが養父母に引き取られてから10年、精神科の治療も受け、もう、全く普通の子供と同じ状態になっていることを養母が教師に語ることなどから、想像するだけである。
ルース本人も「車の運転よりも先に銃の扱い方を覚えた。」と語っていることから、少年兵として、殺傷能力のある銃をもって訓練された、あるいは、実際に戦線に立たされた経験を持つのだろう。

少年兵の話を聞くたびに心が痛くなる。
少年兵はおもに拉致されて兵士に仕立て上げられる。
(いたいけない子供を戦場に送ろうとする親はいないし、まだ原っぱで遊んでいたい子供が進んで兵士に志願するなどありえない。)
無垢だった少年たちが洗脳的な軍事訓練を受け、残虐行為に加担させられる。
親の愛や友人との人間関係を通して、社会生活を身に着け価値観を構築していく10代の時に、豊かな国への憎しみと、それを暴力で解決しようとする価値観を叩き込まれた少年が出来上がっていく。

少年兵は成人して、自分の育った村に帰っても社会復帰は難しいという。
拉致の被害者だった少年に、残虐行為の加担者としての経歴がついてしまっているからだ。

あまりにも根深い問題だ。
それを少しでも良い方向にと、少年兵の過去を持つルースを引き取り、アメリカ社会に溶け込めるように育て上げているエドガー夫妻はすごいと思う。

見ている者こうした前提を十分に理解させながら、ストーリーは、ルースの高校生生活を中心に展開していく。
軸は、世界史教師のハリエット・ウィルソン(オクタヴィア・スペンサー)との関係。
おそらく、ウィルソン先生は、ベテランで、実力のある教師。
世界史上の人物のだれかを選び、その人物になって語るというレポートの課題は面白いとと思う。
この課題で、ルースはフランツ・ファノンというアルジェリア独立運動の指導者を選んだ。
過激思想の持ち主である。
(一般の人はまず知らない。アルジェリアでも忘れられているレベルの人物だそうだ。)
ルースのことを優等生として扱ってきたウィルソン先生に不安がよぎる。
ルースもまた、「アフリカ系高校生の模範」を求めてくるウィルソン先生に息苦しさを感じていた。
ルースがディベートで見事な論理的意見を発表することや、人を感動させるスピーチをすることは、指導者であるウィルソン先生の手柄にもなる。
ルースはそれが嫌だった。

そんな時、ウィルソン先生はルースのロッカーから爆発物となる花火を発見してしまう。
危険物を保持していることは違反。
しかし、個人のロッカーを本人に断りもなく検査するのもプパライバシーの侵害だ。
このあたりから、二人は微妙に対立していく。

ルースが過激思想を持っているかもしれないと疑うウィルソン先生。
エイミーはあくまでも100%の愛情でルースを信じようとする。
途中、ピーターの本音も漏れる。「本当は自分の子とごく普通の家族を築きたかった。」と。

ルースは頭のいい少年だ。
周りの大人たちの心理を読めている。
そして、暴れたり、わめいたりすることはなく、ウィルソン先生の疑いにたいして、理路整然と答えて、すり抜けていく。
レポートに書いたことは、「その人物になって」というレポートの課題に則して書いただけだと。ロッカーは友人と共有しているので、入れてあるものについて、自分が全部管理しているわけではないと。

そして、ウィルソン先生のデスクが仕込まれた花火の爆発で破壊された。
ウィルソン先生はこの責任を取らされて失脚する。

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見終わった後、考えさせられる。
爆発物を仕組んだ犯人は誰なのか?
ウィルソン先生の自宅の窓ガラスに、「ニガー」という落書きをした犯人は誰なのか?

ルースは全く関与していないのか?
それとも、ルースが仕組んだことなのか?

作品ではそのことがはっきりわかるような描き方はしていない。

見終わった後、もう一度見返して、確かめたい気分にさえなる。

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さて。

作品を見終わった後、どう思い、どう考えるのかは人それぞれ。
ルースが怪しい、と感じる方もいるだろうし、いや、ルースは潔白だと思う方もいるだろう。
だから、この記事も、ここでやめておくべきだ。

ただ、余計なこととわかっていつつ、私がどう考えたかを、続けて書きます。
ここからは私の勝手な、そして全くの妄想。

私は爆発も落書きもルースが関与していると思う。
直接やっていなくても、素行の悪さからウィルソン先生に処分されて、スポーツ奨学金を取り消された仲間もいた。
ルースが彼にウィルソン先生を陥れる計画を示唆した可能性はある。
ウィルソン先生もそう考えた。
しかし、ウィルソン先生の考えも私の考えも、あくまでも疑念に過ぎない。
証拠がないことに対して、ルースの関与を決めつけて、取り調べることはできない。
そして、疑うことはルースを傷つける
これ以上、事件については進展しないだろう。

では、ルースは悪魔の心を持った少年なのか?

仮に事件にルースが関与していたとしても、これについては、私ははっきりと否定したい。
幼い時に少年兵の価値観を植え付けられていたとしても、ルースはアメリカの社会で生きていくための価値観がわかっている。
そして、私はルースの将来にも期待している。
それは、何が起こっても100%の愛情でルースを護るエイミーの存在があるからだ。
愛され、信頼されていることをわかっている人間は、それを裏切るようなことはしない。
ルースは頭の良い少年だ。仲間に対する優しさも持っている。
まともな大人に成長するだろう。

もちろん、この先、ルースが、「エリトリアで生まれ育ち、少年兵であったという自分の過去」に苦しむということは起こるだろう。

そうした葛藤を抱えながらも、ルースは立派な大人に成長するはずだ。
見終わった直後、心配な気持ちがわいてしまったのだが、しばらく考えた後、そんなふうに思えた。

あくまでも、自分を納得させるための都合の良い解釈であるけれど。

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ウィルソン先生を演じたオクタヴィア・スペンサーが素晴らしい。
ヴィクトリア・スペンサー
「ヘルプ~心がつなぐストーリー」、「ドリーム」では、白人社会の差別の中で、強く生きていく黒人女性を演じていた。
今回は、主人公のルースに嫌われる役回り。
表情が豊かで、素晴らしい役者さんだと思います。
そして私も世界史教師なので、彼女が演じるウィルソン先生の気持ちが痛いほど理解できます。
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『最後の決闘裁判』

『最後の決闘裁判』
最後の決闘裁判

2021年のイギリス・アメリカ製作の歴史映画。
監督:リドリー・スコット 
出演:マット・デイモン (カルージュ)
   アダム・ドライバー (ル・グリ)
   ジョディ・カマー (マルグリット)
   ベン・アフレック  (ピエール)
 最後の決闘裁判 キャスト
  

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かなり気になっていた作品だった。
脚本は1997年の『グッド・ウィル・ハンティング』を手がけたマット・デイモンベン・アフレック
『グッド・ウィル・ハンティング』は、当時まだ無名だったマット・デイモンが、幼馴染で親友のベン・アフレックと共に2年の歳月をかけて練り上げた作品で、珠玉のセリフが込められていた。
私にとって、今まで見た作品の中でもベスト10に入るほど好きな作品だ。

だから、この『最後の決闘裁判』については、脚本がマット・デイモンとベン・アフレックと知っただけでワクワクしてしまい、どうしても見たいと思っていた。
そして、最寄りの映画館での上映が11月4日で終了ということを知り、上映打ち切り4日まえにぎりぎり仕事帰りに映画館に寄って見てきた。

見終わった後の帰り道。
「????」
「なんだ、これは。何を描きたいのだ?」
「よくわからん。」

モヤモヤが残った。

この作品についてはブログに書くつもりはなかったのだが、その後、ネットで評判や感想を読んでいたら、やはり、物議をかもしているということを知り、また、いろいろ考えてしまい、そのことを書いてみたくなった。
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1.
描いているのが14世紀なので、中世の価値観と現代とでは考え方が違うといってしまえばそれまでなのだが、それにしても納得がいかない。
裁判の決着を決闘でつけるとは....。

中世は理不尽で、少なくとも証拠に基づいて裁判が行われる現代の方がましとだと思った私の反応は、もしかして、作った側の思うつぼなのか?

2.
作品の構成が、性的暴行事件の被害者の夫、加害者、被害者の3人の視点から描いた3つのパートからなっているだが、同じことを3回繰り返し見せられたたようにしか思えなかった。
このことは、ヴェネツィア国際映画祭の記者会見で、同様の質問があったようだが、これに対して監督のリドリー・スコットは、「もう一度、映画を見たまえ!」と怒りの声で反応したそうだ。
私も間違いなくスコット監督から怒鳴られるな。

加害者、被害者、被害者の夫の3者による証言で真実をあぶりだそうという手法は、黒澤明監督の「羅生門」に倣っている。(こちらは「性的暴行事件の被害者の夫」が殺害されているので、事件の審問では、被害者の夫の証言は巫女の口を借りて語るという手法をとっている。)
特にこの被害者の夫のパートでは、「性的暴行事件の被害者である妻」がどのような表情を見せたか、どのような言動をとったのかが語られ、一つの出来事でも立場が違えば証言が食い違ってくる、という面白さにが、まさに作品の見どころだった。

「最後の決闘裁判」は3つのパートの違いがよくわからなかった。

3.
女性が性的暴行を訴えることの難しさは、中世も現代も変わらないということ。
訴えれば、世の中の好奇の目にさらさる。
しかし、訴えなければ泣き寝入りになる。
しかし、裁判で自分の主張が通るとは限らない。
被害者である女性に落ち度はなかったのか、ということを追及される。

「しかし」、「しかし」が繰り返されるだけ。

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中世とはなんて理不尽な世の中なのだろう。
女性が強姦を訴えることがいかに大変なことかということは、中世も現代も変わらないな。
と、思った。

マット・デイモンとベン・アフレックの友情に期待して見てしまったが、全くそういう役どころではなかった。
(思い込みは禁物)

『モーリタニアン/黒塗りの記録』

『モーリタニアン/黒塗りの歴史』
2021年のアメリカ・イギリス合作映画
モーリタニアン/黒塗りに記録

2015年に出版された実在の人物モハメドゥ・スラヒの〈手記〉をもとに制作された真実に基づくストーリー。

モーリタニア人のスラヒは、2001.9.11の同時多発テロの容疑者として、キューバにある米軍基地グアンタナモに設置された刑務所に不当に拘禁された。

人権派弁護士ナンシー(ジョディ・フォスター)は、若手弁護士テリー(シャイリーン・ウッドリー)をアシスタントにつけて、スラヒ(タハール・ラリム)の弁護を買ってでて、グアンタナモに乗り込む。同じころ、テロ犯の容疑者を死刑にしたい政府から、スラヒを起訴することを命じられたカウチ中佐(ベネディクト・カンバーバッチ)も調査に乗り出す。

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キューバに設置されているグアンタナモの刑務所はテロ犯など収容し、酷い拷問が行われていると非難されている
そこを舞台としたストーリーなので、きっと見るに堪えない拷問シーンがあるのだろうな、、そういうのはあんまり見たくないなあ、怖いなあ、と思いながら、しかし、これはアメリカの汚点であり、あってはならないことが行われているのだとしたら、やはり、見ておかねば、などと思いながら劇場に行ってきました。

見に行ってよかったです。
残虐な拷問シーンを見せつけて、アメリカの非道を訴えるような作品ではありませんでした。もちろん、グアンタナモで行われているような拷問は、21世紀の法治国家アメリカにおいてあってはならないことで、作品でも、その酷さはきちんと描いています。
しかし、この作品はグアンタナモを批判しているというより、この理不尽な状況に対して、それに耐え、希望を失わなかったスラヒと、彼を救おうとしたナンシーとテリー、あるいは彼を起訴する任務を受けながら、グアンタナモで行われていることに疑問を持つカウチ中佐ら、登場する人物たちの素晴らしさを描いたものだと思いました。

スラヒという人物がすごいです。彼は全くテロに関与していないのに、長期にわたり拘禁され、苦痛を伴う扱いや、自尊心を奪うような屈辱的な扱いを受けました。
それなのに正気を失わず、希望を捨てませんでした。

すごいです。
モーリタニアン スラヒ


******************
(参考までに)
2009年、オバマ大統領はグアンタナモ閉鎖を表明したが、実現に至っていない。
拷問は国際法でもアメリカの法律でも禁止されているが、トランプ大統領はこれを合法化しようとした。バイデン大統領は、オバマさんの政策を引き継ぎ決着したいはずだが、アフガニスタンでタリバンが政権を取ってしまうなど、情勢はよい方向に進んでいるとは言えない。

『MINAMATA』

MINAMATA
MINAMATA

2020年のアメリカ映画。日本での公開は2021年9月。
水俣病の実態を撮影・記録したフォト・ジャーナリスト、ユージン・スミスを描いた作品。

見る前から、タイトルでストーリーの展開のおおよそは見当がつく。
水俣病患者の悲惨さ、企業との闘争、それを写真に撮影して世界に訴えた写真家を描いた、いわゆる社会派作品なのだろうなと。
そしておそらく暗くて重い作品かな、と。
こう勝手に予想して、一応みておこうかなというくらいの気持ちで10月3日(日)、朝一番で近所のTOHOシネマズに行ってきました。

良かったです。とても。
予想をはるかに超えて、心にグッときました。
見に行ってよかった。見終わった後、心からそう思いました。

**********

今、「この映画は、何がよかったのだろうか?」ということについて考えている。

ひとつは、この作品が、ドキュメンタリー作品ではないということによるかなと思う。
ドキュメンタリーと銘打っていたら、事実しか取り扱うことができない。
「史実にもとづくストーリー」とすれば、フィクションを挿入することもできる。
それにより、ユージンの気持ち、水俣病被害者とその家族の気持ち、折れそうになりながらも抗議活動を続ける支援者の人たちの気持ちを細やかに描くことができたのだと思う。
(ユージンとチッソの社長との駆け引きや、ユージンたちの活動を妨害する出来事のなかに、実際にはなかった創作も含まれている。)
だからとても分かりやすい。

そして、俳優陣が素晴らしかった。
私は、画面に登場した時間はごくわずかだった浅野忠信の静かな演技に強いインパクトを受けた。
彼は胎児性水俣病の智子の父親マツムラ・タツオを演じた。
ユージンは水俣に到着してすぐにマツムラ家を訪れる。そして、マツムラに撮影の許可を願い出る。
マツムラの答えは、「勘弁してください。」だった。

そうか。
被害の発生した水俣という地域の中で、この人たちは、ひっそりと暮らしているのだ。
智子を世の中の好奇の目にさらしたくないのだ。

穏やかな口調で答えたマツムラ。
どれだけの怒り、苦しみを背負っているのだろうと思わずにはいられない。

そして、次第に水俣の人々がユージンに心を開いていく。
写真家と被写体の信頼関係があって、初めて本物の写真が撮れる。
入浴する智子と母(注1)」はユージンがとった写真の中で最も有名な写真であるが、今まで私は、なぜこのような写真が撮れたのかということまで考えたことはなかった。
写真家がいきなり水俣に行って、偶然に撮れた一枚ではないのだ。


この映画は、見た者が、被害者の心情がどのようなものであったかということにまで思いを至らせるようになる、そういう作品だと思った。


*****************
注1:「入浴する智子と母」の本物の写真は、現在では見ることができません。ユージンの妻アイリーンが1998年に封印しました。理由は「(この写真を)もう休ませてあげたい。」ということでした。

『アイダよ、何処へ』

緊急事態宣言も明け、台風一過の10月2日(土)、千葉劇場というミニシアターに映画を見に行ってきました。観客数10人弱。シニア料金(¥1100)で入っているとみられる人ばかりだったから、この回の売り上げ1万円程度。地方のミニシアターは経営が大変だろうなどと思いながら、作品に浸ってきた。


『アイダよ、何処へ(QUO VADIS,AIDA?)』
2020年のボスニア・ヘルツェゴヴィナなど9か国の合作映画 (注1)


第二次世界大戦後のヨーロッパ最悪の悲劇と言われた1995年夏の「スレブレニツァの虐殺」」を描いた作品。
混乱のさなか、国連職員で通訳のアイダは家族を守るために必死の行動をとった。
アイダよ、何処へ

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スレプレニツァという地名をご存知でしたか?
私は知らなかった。
ボスニア紛争の背景はわかっているつもりだったし、その悲惨な展開も知っているつもりであったが、このような集団処刑が行われたことについても全く知らなかったし、そもそも、スレプレニツァという地名も今回初めて聞いた。
ボスニア紛争自体が複雑で悲惨だが、その末期に起きたスレブレニツァの虐殺では、推計8000人以上のボシュニャク人(イスラーム教徒)が殺害された。
わずか四半世紀前に、このようなことが起きていたのだということを、映画を通して知ることができた。
民族同士の対立から内戦となり、混乱が加速すると、収拾不可能な状態に陥り、このようなことが起こってしまうのかと、その恐ろしさを認識した。

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この作品の背景となったボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争(1992~1995)について。

ユーゴ 地図

第一次世界大戦後に独立したユーゴスラヴィアという国は6つの共和国からなる連邦国家で、「5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字をもつ1つの国家(注2)」で、多様性・複雑性をもつ国家であったが、ティトー大統領というカリスマ的指導者のもと、東西冷戦の緊張の中で、統一を保っていた。
1980年にティトー大統領が死去して以降、連邦国家としての結合は弱まり、1989年冷戦終結、1991年ソ連消滅という激動の中で、連邦を構成していたスロベニア、クロアチアが連邦から分離独立し、ユーゴスラヴィアの解体が始まっていった。
その流れの中で、ボシュニャク人(イスラーム教徒)、セルビア人、クロアチア人という宗教の異なる3つの民族で構成されていたボスニア・ヘルツェゴヴィナは、分離独立をめぐる対立から、複雑な内戦になってしまった。
そして、勢力地域を拡大するセルビア人に対して、人数では多数派であるはずのボシュニャク人は最も劣勢になってしまった。
ボスニア 地図
1995年7月、セルビア軍の侵攻を目前にして、スレプレニツァ地域に住むボシュニャク人は、安全地帯とされた国連保護軍のオランダ軍本部に向かうか、セルビア人支配地域を突破しながら約50km離れたボシュニャク人支配地域をめざして徒歩で向かうしかなかった。

約4万人いたスレプレニツァのボシュニャク人のうち、オランダ軍本部を目指した人々が約2万人。しかし、その敷地内には入れたのは5000人で、約15000人がゲートの外にあふれかえり、水もトイレもない状態の屋外で昼夜を過ごすことを強いられた。
アイダ

この作品では、オランダ本部に逃げ込もうとした人々の様子を中心に描いている。
見ていて衝撃の連続だった。
こんな状況下に1時間でも居たくない。
命の危険にさらされながら、行き場のない人々。
そんな人々であふれかえっているオランダ軍本部のゲート前。


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(以下、この作品をみて私が感じたこと。ネタバレを含みます。)

アイダがすごい。家族を守ろうとして必死に施設の中を走り回る。
しかし、それは、自分の家族である夫と息子2人を守るためであって、国連職員という立場を利用して、特別扱いしてもらおうとして、必死に国連軍の人たちに懇願する姿だ。
見ていて、途中で、ん?と思う。
アイダの行動に「自分の家族だけ」という身勝手さを感じるのだ。
しかし、アイダに共感することはできないまま見続けているうちに、そんなことは言っていられないすさまじい状況であったのだということを思い知らされる。
逃げなくては、隠れなければ殺されるのだ。
家族を守るためならなんだってする。
きれいごとなど言っていられない、これが混乱を極めた現場の実態だったのだろう。

さらに、みていて感じてしまうこと。
国連軍の無力さ。
ルワンダ内戦の時もそうだった。
事態がどんどんエスカレートしていって収拾不可能になると現地を見捨てて撤退する。
国連軍て?とつい思ってしまう。

しかし現地の国連軍の無力さを批判することはできない。
オランダ軍は、他国がすでにこの地を見捨てている状況のなかで、現地に駐屯して、この地の住民を守ろうとしていたのだ。
圧倒的な兵力不足による無力を非難することは、問題の本質からそれることになる。

問題は民族同士の憎しみあいだ。
外見からは、セルビア人とボシュニャク人は区別がつかない。
大きく分類すれば、同じ南スラヴ人だ。
それなのに、宗教の違いによる民族の違いは、憎しみにまで膨らんでいく。
ボシュニャク人がセルビア人を殺害したから、それに対する報復をしているというセルビア軍の将軍ムラディッチの理屈。
そのために命を奪われた無抵抗のスレプレニツァのボシュニャク人。

悲しい。

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その後の展開。
スレプレニツァの虐殺の起きた7月の後、8月にはNATOによるセルビア人支配地域への大規模空爆が始まり、アメリカが仲介に乗り出す。
11月、3民族による和平合意が成立し、12月に正式調印された。

その後、16年間潜伏していたムラディッチは2011年に身柄を確保され、2021年6月、ようやく終身刑が確定した。

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劇場で購入したパンフレットを読んで知ったこと。
アイダを演じたヤスナ・ジュリチッチとムラディッチ将軍を演じたボスコ・イサコヴィッチは夫婦でともにセルビア人。この作品に出演したことでセルビア人から非難の的になり、母国で政治的圧力を受けているという。

すごい夫婦だと思う。
セルビア人でありながらボシュニャク人を演じる、
セルビア人でありながら、ジェノサイドを行ったムラディッチ将軍を演じる。

この作品はセルビア人にとっては、見たくもないものだろう。
多くの一般セルビア人にとって、スレプレニツァの虐殺は軍が行ったことで、自分には関係ないこと、と思いたいだろう。
しかし、この作品により、世界の人々がそこで何が起きたかを知ることができた。
作品を見た私たちは、セルビア人を非難するということではなく、なぜこのようなことが起きてしまったのだろうということを考え続けたい。

タイトルの「アイダよ、何処へ」は、この先、アイダがどちらに向かって生きていくのかということを問うているのだろうと思う。


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(注1):この作品を制作するにあたって、資金のないボスニアに対して、オーストリア、ドイツ、フランス、オランダ、ノルウェー、ポーランド、ルーマニア、トルコの8か国が協力した。

(注2)
6つの共和国:スロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ      
5つの民族:セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人
4つの言語;セルビア語、クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語
3つの宗教:カトリック、正教、イスラーム教
2つの文字:ラテン文字、キリル文字
1つの国家:ユーゴスラヴィア連邦
のことを指します。 共和国については、現在はセルビアからコソヴォが独立したので7つになっていることや、民族のなかに、ボシュニャク人(当時はムスリム人という呼び方だった)が含まれていないので、適当ではない部分がありますが、複雑な民族構成を持つ国ということを表現するために、数をあげて示すこの言い方を使いました。
プロフィール

萩谷功枝

Author:萩谷功枝
世界史教師をしています。

映画や本の紹介、最新のニュースから感じたこと、など自分の日常を通して、世界史のことを考えていけたらと思います。

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