『グリーン・ブック』

グリーンブック

2018年のアメリカ映画。分類は伝記コメディ。
出演
マハーシャラ・アリ
(黒人ピアニストのドン・ドクター・シャーリー)
ヴィゴ・モーテンセン
(イタリア系アメリカ人の用心棒・運転手 トニー・ヴァレロンガ)


日本での公開は2019年3月。
公開直後に夫と一緒に劇場で見た。
見終わった後、「よかった。」いう感想を夫と語りながら家路についた記憶がある。
(我が家は、劇場で映画を見るとしても別々のことが多いし、たまに一緒に見に行ったとしても、その作品がはずれだった時、「つっまんネェ、映画だったなあ。」というセリフを翌日の朝食ぐらいまで聞かされることになるのだが、この作品については、「いい映画を見た。」という感想を夫婦で共有できた。)

この映画については、おおむね好評であるのだが、一方で厳しい批評もある。
私はいい映画だと思った。それが見終わった後の、素直な感想である。
映画は見に行って、楽しく過ごせて、見終わった後にいい作品だと思えたなら、それでいいじゃないかということなのではあるが、やはり、どういう点が批判されてしまうのかということについて考えてみたくなる。

ブログに書きたいと思いつつ、今日まで書けずにいた作品なので、もう一度見直して考えてみたいと思った。

まずは、この映画についての概要から。

***********************

時期設定は1962年。(公民権法制定の2年前)
グリーン・ブックとは、南部を旅する黒人が泊まれる宿の情報を載せたガイドブック。

ドクター・シャーリーは黒人ピアニストとしての名声を築き上げ、カーネギー・ホ-ルの上階の高級な家具・調度に囲まれた部屋に住んでいた。
北部でのコンサート活動を続ければ、なんのトラブルもなく、高収入を得て、ピアニストとして、高い評価を得て暮らしていける。

そんな彼が、運転手&用心棒としてイタリア系のトニーを雇い、黒人差別の激しい南部へのコンサート・ツアーに出る。
特にディープサウスと呼ばれているアメリカ最南部の地域(ジョージア州、アラバマ州、ミシシッピ州など)での黒人差別は激しい。
作品の途中でも、ナット・キング・コールが初めて白人の前で歌う黒人として舞台に立った時、差別主義の白人たちによって舞台から引きずり降ろされてしまったというエピソードが語られていた。

そんな地域に敢えて行く。

ペンシルベニア州ピッツバーグ→オハイオ州→インディアナ州ハノーヴァー
このあたりはまだいい。用意されたピアノがひどいものでも、用心棒のトニーの一喝でスタンウェイを用意させることができる。
→アイオワ州シダーラピッズ→ケンタッキー州レイビル
このあたりから黒人に対する白人の態度があからさまに感じ悪くなる。
→ノースカロライナ州ローリー
ここでは、黒人は建物内にある白人専用トイレを使用することはできず、戸外の黒人用の粗末なトイレを使用しろと言われる。ドクター・シャーリーは30分かけてモーテルに戻るという選択をする。 
→ジョージア州メイコン→テネシー州メンフィス→アーカンソー州リトルロック→ルイジアナ州バトンルージュ→ミシシッピ州テューペロ→ミシシッピ州ジャクソン
このあとの夜間の移動で、土砂降りの雨の中、「黒人は夜の外出は禁止されている」という理由で(そういう州法があるということだ)、検問の警察官とのトラブルが発生し、「ニガー」という言葉を使った警官に腹を立てたトニーが警官を殴ってしまい収監されてしまう。
そして、最終公演はアラバマ州バーミンガムのクリスマスコンサート。
しかし、コンサート前の食事を黒人のドクター・シャーリーはトニー達スタッフと一緒に会場のレストランでとれないという対応を受け、ドクター・シャーリーはここでのコンサートを拒否して、帰路につく。

**
ドクター・シャーリーはなぜ、南部へのコンサート・ツアーに出たのだろうか?
彼は北部ならチヤホヤされ、3倍稼げた。
危険な目にあうこともなく、いやな思いをすることもなかった。
それなのに、なぜ?

途中、ドクター・シャーリーの悲痛な叫びがある。
私ははぐれ黒人だ。
白人でも黒人でもなく、男でもない私は何なのだ!


黒人という存在でありながら、「いい暮らしをしている奴」ということで、黒人社会からもはみ出している。
旅の途中、南部の農園で働く貧しい農夫たちの姿があった。
白人運転手のトニーが故障を修理している間、高級車の後部座席に座るドクター・シャーリーを見つめる農夫たちの視線は、奇異なものを見る目、というよりむしろ敵意をもったものだったように思う。
はぐれ黒人・・・。
その上、彼には秘密があった。トニーにも知られたくなかった秘密。
人種的な差別を受けているうえに、性的マイノリティーだったとしたら、ドクター・シャーリーは、自分の存在そのものに二重三重の苦しみを抱えていることになる。

ピアニストとしての名声、豪華な部屋、高級車、白人の使用人を持つ身分でありながら、
ドクター・シャーリーは自己のアイデンティティのあり方に苦しみ、自分が何者であるかがわからず、孤独だった。


それを克服するための旅が、このディープサウスへのコンサート・ツアーだったのだと、私は思う。

**

この作品は、2019年2月の第91回アカデミー賞で、作品賞と助演男優賞を獲得した。
しかし、受賞した作品に対する批判はつきものだ。
白人のトニーと黒人のドクター・シャーリーが人種の壁を乗り越えて理解を深めるという結末が、あたかも人種差別の問題を克服したかのように描かれていて安易だ、という批判があるようだ。
黒人への差別が今も引き続き起こっている現状を考えたとき、この作品のように美談に仕上げるな、ということなのだろう。
黒人差別を批判する作品であったのなら、そういう批判は当然だろう。
しかし、この作品は、それをテーマにした作品ではないと私は思った。
差別の中で生きる人間の生き様なのだと思う。
差別があるという理不尽な社会の中にあって、そのような理不尽さはなくしていかなければならないと考えるのは当然なのだが、理不尽さがなくならない限り、人はその理不尽さの中で生きていかなければならない。
そして、その理不尽な社会の中で、人はどのように心のバランスを保って生きていけばよいのかを問うているように思う。

人は理解しあえる相手がいるから生きていける。
知的なドクター・シャーリーと粗野なトニー。
あまりにも違う2人のキャラだったが、8週間にわたる車での移動の旅を通して、ぶつかり合いながらも、お互いの理解は次第に深まっていった。
そこかな。
見終わった後、さわやかな気分になれるのは。
トニーの家族や友人たちのイタリア系の人々のクリスマス・イブのホーム・パーティに、一見、異分子のドクター・シャーリーが現れたとき、このイタリア系の人たちはみんな、彼を温かく迎えてくれた。
孤独に苦しんでいたドクター・シャーリーが、ラストで笑った。

甘い、と言われようが、私はこのストーリーが好き。
人は理解しあい、愛し合って生きていく生き物なのだ。
時を共に過ごし、かかわりあいながら、生きていくのだ。

******

とは言うものの。
この作品が、ハッピーエンドで気分よく終わっているのは、製作スタッフがすべて白人というところがあるのかもしれない、とは思ってしまう。
黒人差別を背景にした作品を描くとき、黒人監督ならば、ハッピーエンドにはできないかもしれない。
『フルートベール駅で』のライアン・クーグラー、あるいは一見コメディ調の『ドゥザライトシング』のスパイク・リーは黒人監督であり、これらの作品では、誤認や過度な取り締まりにより、警官による黒人の殺害が描かれている。
亡くなった黒人の命のことを考えると、見終わった後になんともやるせない気分になる。
(『デトロイト』のキャスリン・ビグローは白人女性だが。)

こうなってくると、監督や制作スタッフが白人なのか黒人なのかをいちいち確認したくなるが、それは逆に先入観や偏見を持つことにつながってしまう。
大事なのは、作られた作品がどのようなものであり、その作品を見た側がどう感じ、何を考えるかだと思う。
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プロフィール

萩谷功枝

Author:萩谷功枝
世界史教師をしています。

映画や本の紹介、最新のニュースから感じたこと、など自分の日常を通して、世界史のことを考えていけたらと思います。

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