引き続き「銃」について。
先日、娘と夕食をとっている時に
「どうして、日本は銃のない社会になったのか?」と質問された。
とっさに、
「秀吉が一揆を防ぐために刀狩で農民から武器を取り上げたからだ。」と答えたが、
「それでは不十分だ、不正確だ」という思いが自分の頭の中をかすめた。
1588年、豊臣秀吉は、農民から刀、脇差、弓、槍、鉄砲などを、「大仏殿建立のための釘、かすがいに用いる」と称して没収した。
しかし、農民から武器を奪ったのであって、武士については対象外であった。
当然、どの大名も、自分の武士団の武器には手を付けない。
日本の戦国時代には、有名な長篠の合戦を始めとして、鉄砲が使用された。
あれはいったいどこに消えたのだ?
と考えていたら、Facebookで、「平和教育地球キャンペーン」さんから本の紹介が届いた。
「鉄砲を捨てた日本人」 - 日本史に学ぶ軍縮
ノエル=ぺリン著 川勝平太訳 中公文庫
渡りに船というのか、あまりのタイミングの良さにちょっと気を良くしてさっそく注文。
(これがAmazonからのお知らせメールで、人の購入履歴から「あなたにオススメの本」とか言うならわかる。つい先日、「鉄・病原菌・銃」を買ったばかりだから。)
お急ぎ便で、送料無料。翌日届いた。
そして、この本は、私の疑問に答えてくれた。
以下、どういう過程で日本が鉄砲を捨てたのかについて、この本に書かれていることを要約してみる。
日本は鉄砲を公式に廃棄したことは一度もない。
その代わりにきわめて緩慢ながら、ある時点から鉄砲を削減していった。
1607年に徳川家康は法度で、日本の鉄砲鍛冶を国友に集中させた。(堺は例外)
鉄砲は幕府の許可の下にのみ製造可能となり、しかも鉄砲代官は、幕府の注文以外ほとんど許可しなかった。
(つまり、鉄砲を没収したのではなく、製造を抑制した。)
鉄砲が重要な役割を担う最後の戦争が1637年の島原の乱であった。
この島原の乱が鎮定された後の200年間、日本人は積極的に鉄砲を使うことはなかった。
武士は剣術の修行に再び励むようになり、日本中の熟練鍛冶は鉄砲ではなく、高級甲冑や刀剣を次から次へと製作した。
なぜ、日本は火器から背を向けたのであろうか?
この答えとして、著者のぺリンは以下の5点を挙げている。
(カッコ内は私が勝手に補足しました。)
1.「日本には武士が多勢いた。」
(総人口の約8パーセントと推定していて、これは中世ヨーロッパの騎士の割合などからみても格段に多い。そして彼らは、ほとんどが鉄砲嫌いであった。)
2.「日本は中国を征服するには小国すぎた。一方、どの国にせよ、あえて日本の征服に乗り出すには日本は強国すぎた。」
(つまり、他国を侵略する気もなく、侵略される危険も少なかった江戸時代の日本において、国内の治安を守るだけなら鉄砲は必要なかった。)
3.「日本では、刀剣が大きな象徴的な意味を持っていた。」
(武士のみが帯刀を許された。戦国時代の鉄砲隊は、農民もしくは郷士や地侍上がりで編成され、鉄砲は、卑しい身分の者が扱う武器だった。武士にとって高貴な身分を象徴する武器は刀剣で、鉄砲ではなかった。)
4.西洋人の思想に対する反動的な潮流が存在し、外来の武器である鉄砲に対する反発があった。
5.「美的感覚。」 刀剣は飛び道具よりも品位の高い武器であった。
(鉄砲を撃つ姿より、剣術の方がかっこいい。時代劇の殺陣(たて)では、主人公が美しい刀さばきで悪人をやっつけている。鉄砲なんぞを持ち出したら卑怯者という価値観が日本人にはある。)
なるほど。
世界史のなかでも、たぐいまれな260年間という長期にわたって平和を享受した日本の江戸時代は、鉄砲を必要とせず、徐々に鉄砲という武器を放棄していったのだ。
この本は、「なぜ、日本は銃のない社会をつくりあげたのか?」という私の疑問に答えてくれた。
しかし、この本は、ここに留まってはいない。
訳者の川勝平太氏が言っているように、
この本は、「日本の歴史に教訓を汲みとった反戦・反核の書である。」のだ。
ぺリンは、江戸時代の日本が鉄砲を放棄したことを、「世界史におそらく類例を見ない」と注目している。
「高い技術を持った文明国が、自発的に高度な武器を捨てて、古臭い武器に逆戻りする道を選んだ。
そして、その国日本は、この逆戻りの道を選びとって成功した。」
江戸時代の日本は、鉄砲を製造できる高い技術を持ちながら、あえて、鉄砲を捨てた。
製造できなかったのではなく、製造しなかったのである。
そして、武器製造部門では、世界的なレベルで言うと、あえて低い水準に落としながら、その他の部門での日本のレベルは極めて高水準をほこった。
例えば、数学者の関孝和、医学の解剖の分野での山脇東洋など。
実用面でも、紙や水道など。
ここからぺリンは以下の結論に至っている。
1.ゼロ成長の経済と中身の豊かな文化的生活とは100%両立しうる。
2.人間は、受け身のまま、自分の作り出した知識と技術の犠牲になっている存在ではない。
必要のないものは廃棄すればよい。
人間は、進歩を止め、逆戻りの道を選ぶこともできる、ということだ。
先日、娘と夕食をとっている時に
「どうして、日本は銃のない社会になったのか?」と質問された。
とっさに、
「秀吉が一揆を防ぐために刀狩で農民から武器を取り上げたからだ。」と答えたが、
「それでは不十分だ、不正確だ」という思いが自分の頭の中をかすめた。
1588年、豊臣秀吉は、農民から刀、脇差、弓、槍、鉄砲などを、「大仏殿建立のための釘、かすがいに用いる」と称して没収した。
しかし、農民から武器を奪ったのであって、武士については対象外であった。
当然、どの大名も、自分の武士団の武器には手を付けない。
日本の戦国時代には、有名な長篠の合戦を始めとして、鉄砲が使用された。
あれはいったいどこに消えたのだ?
と考えていたら、Facebookで、「平和教育地球キャンペーン」さんから本の紹介が届いた。
「鉄砲を捨てた日本人」 - 日本史に学ぶ軍縮
ノエル=ぺリン著 川勝平太訳 中公文庫
渡りに船というのか、あまりのタイミングの良さにちょっと気を良くしてさっそく注文。
(これがAmazonからのお知らせメールで、人の購入履歴から「あなたにオススメの本」とか言うならわかる。つい先日、「鉄・病原菌・銃」を買ったばかりだから。)
お急ぎ便で、送料無料。翌日届いた。
そして、この本は、私の疑問に答えてくれた。
以下、どういう過程で日本が鉄砲を捨てたのかについて、この本に書かれていることを要約してみる。
日本は鉄砲を公式に廃棄したことは一度もない。
その代わりにきわめて緩慢ながら、ある時点から鉄砲を削減していった。
1607年に徳川家康は法度で、日本の鉄砲鍛冶を国友に集中させた。(堺は例外)
鉄砲は幕府の許可の下にのみ製造可能となり、しかも鉄砲代官は、幕府の注文以外ほとんど許可しなかった。
(つまり、鉄砲を没収したのではなく、製造を抑制した。)
鉄砲が重要な役割を担う最後の戦争が1637年の島原の乱であった。
この島原の乱が鎮定された後の200年間、日本人は積極的に鉄砲を使うことはなかった。
武士は剣術の修行に再び励むようになり、日本中の熟練鍛冶は鉄砲ではなく、高級甲冑や刀剣を次から次へと製作した。
なぜ、日本は火器から背を向けたのであろうか?
この答えとして、著者のぺリンは以下の5点を挙げている。
(カッコ内は私が勝手に補足しました。)
1.「日本には武士が多勢いた。」
(総人口の約8パーセントと推定していて、これは中世ヨーロッパの騎士の割合などからみても格段に多い。そして彼らは、ほとんどが鉄砲嫌いであった。)
2.「日本は中国を征服するには小国すぎた。一方、どの国にせよ、あえて日本の征服に乗り出すには日本は強国すぎた。」
(つまり、他国を侵略する気もなく、侵略される危険も少なかった江戸時代の日本において、国内の治安を守るだけなら鉄砲は必要なかった。)
3.「日本では、刀剣が大きな象徴的な意味を持っていた。」
(武士のみが帯刀を許された。戦国時代の鉄砲隊は、農民もしくは郷士や地侍上がりで編成され、鉄砲は、卑しい身分の者が扱う武器だった。武士にとって高貴な身分を象徴する武器は刀剣で、鉄砲ではなかった。)
4.西洋人の思想に対する反動的な潮流が存在し、外来の武器である鉄砲に対する反発があった。
5.「美的感覚。」 刀剣は飛び道具よりも品位の高い武器であった。
(鉄砲を撃つ姿より、剣術の方がかっこいい。時代劇の殺陣(たて)では、主人公が美しい刀さばきで悪人をやっつけている。鉄砲なんぞを持ち出したら卑怯者という価値観が日本人にはある。)
なるほど。
世界史のなかでも、たぐいまれな260年間という長期にわたって平和を享受した日本の江戸時代は、鉄砲を必要とせず、徐々に鉄砲という武器を放棄していったのだ。
この本は、「なぜ、日本は銃のない社会をつくりあげたのか?」という私の疑問に答えてくれた。
しかし、この本は、ここに留まってはいない。
訳者の川勝平太氏が言っているように、
この本は、「日本の歴史に教訓を汲みとった反戦・反核の書である。」のだ。
ぺリンは、江戸時代の日本が鉄砲を放棄したことを、「世界史におそらく類例を見ない」と注目している。
「高い技術を持った文明国が、自発的に高度な武器を捨てて、古臭い武器に逆戻りする道を選んだ。
そして、その国日本は、この逆戻りの道を選びとって成功した。」
江戸時代の日本は、鉄砲を製造できる高い技術を持ちながら、あえて、鉄砲を捨てた。
製造できなかったのではなく、製造しなかったのである。
そして、武器製造部門では、世界的なレベルで言うと、あえて低い水準に落としながら、その他の部門での日本のレベルは極めて高水準をほこった。
例えば、数学者の関孝和、医学の解剖の分野での山脇東洋など。
実用面でも、紙や水道など。
ここからぺリンは以下の結論に至っている。
1.ゼロ成長の経済と中身の豊かな文化的生活とは100%両立しうる。
2.人間は、受け身のまま、自分の作り出した知識と技術の犠牲になっている存在ではない。
必要のないものは廃棄すればよい。
人間は、進歩を止め、逆戻りの道を選ぶこともできる、ということだ。
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